こんにちはスピリチュアル キュレーターの大村真吾です。

今回は北海道の絶景パワースポット「積丹半島の神威岬」についてです。

1:神威岬とは

2:神威岬の伝説

3:源義経伝説

 

1:神威岬とは

北海道の積丹半島にあります。

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地図1

地図2

地図3

 

住所は北海道積丹郡積丹町神岬町。

札幌市内からは車で約2時間、小樽市内からは約1時間半になります。

ニセコ積丹小樽海岸国定公園に属しており、先端には神威岬灯台と神威岩があり、この付近は古くから海上交通の難所として知られていました。

積丹半島には島武意海岸や黄金岬など美しい場所があります。

また札幌や小樽からの行程の中で余市も通りますのでニッカウヰスキーやニシン御殿などの見どころもあります。

また神威(カムイ)は神を意味し、自然現象や動植物などに宿るとされています。

つまり神の岬という訳です。

ちなみにアイヌ語では神威と感じでは書きません。これはアイヌ語の音に感じをあてたことになります。

北海道の地名の多くはアイヌ語で漢字をあてたものです。

 

神威岬は神威自然公園になっています。

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駐車場から「チャンカレの道」というトレイルが神威岬の先端まで続いています。

歩き始めて10分弱くらいで「女人禁制の門」に着きます。

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女人禁制の門(今はこの門から先に女性も行けます)から約20分くらいで神威岬の先端に着きます。

「チャンカレの道」は少々起伏があり、左右が断崖絶壁の尾根を進みます。

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ダイナミックな景色を楽しむことができます。また眼下の海は積丹(シャコタン)ブルーと呼ばれる綺麗な海を見ることができます。

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灯台のすぐ先に岬の先端があります。そこからは神威岩を望むことが出来ます。

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2:神威岬の伝説

 奥州で自刃したといわれる源義経。実は義経は死んでおらず北海道に逃げ延びて日高の平取に潜んだとされています。平取で長の娘チャレンカと恋に落ちたのですが、義経は平取を出て積丹半島に行き大陸に渡りました。チャレンカは義経を追い最先端の神威岬まできますが、義経は海のかなたに去っていきます。泣き叫ぶチャレンカは「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐれすなわち覆沈せん」と言い海に身を投げます。そのチャレンカが神威岩になったといわれています。

その後、神威岬は難所でもあり「女性禁制」とされました。

 

3:義経チンギスハン伝説

義経が鍛え逃げ延びで蝦夷から大陸に渡りチンギスハンに成ったという伝説があります。

伝説

                                       源義経              チンギスハン(成吉思汗)

「義経=チンギスハン」説のまえにまずは義経が奥州で亡くなっていないとする「義経不死説」を見てみなければなりません。

頼朝と義経は異母兄弟です。頼朝の母は由良御前(父義朝の正室です)という熱田神宮の宮司の娘です。一方義経は常盤御前。

義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした功労者にもかかわらず、頼朝から謀反の疑いをかけられて追われることになります。

京都を出た義経は幼いころに身を寄せていた東北、奥州の藤原藤原氏 藤原秀衡のもとに行きます。

しかし義経が行った数か月後に秀衡は亡くなってしまします。引き継いだ秀衡の子である泰衡は義経を匿います。しかし1189年旧暦4月30日頼朝からの再三の圧力に屈し泰衡は義経を討ちに行きます。囲まれた義経は持仏堂に籠り、そこで自刃したとされています。

その首は同年旧暦6月13日に鎌倉に届けられます。実に43日間もかかっているのです。平泉から鎌倉は約480KM、約20日前後で着く距離です。また首実検をした梶原景時は「義経の首ではない」としますが、もうひとりの和田義盛は「この首は焼け首であって、生きていたころの顔とは違っていて当然だ。しかもこの首が祟りを起こす」と言います。結果この首は海に棄てられたのです。頼朝は義経の首を確認していないのです。

その死んだはずの義経であったにもかかわらず、半年後には「義経蜂起」の知らせに鎌倉幕府は大騒ぎになるのです。誤報だったと収まるのですが、義経が死んだと確信していれば起こらない騒ぎのはずです。

そして義経を討った藤原泰衡は同年7月から9月にかけて鎌倉幕府との間におきた奥州合戦により奥州藤原氏は滅亡することになります。これにより頼朝は政権を確立することになるのです。

 

宮城県金成町には杉目太郎行信の碑があります。その碑には「源祖義経神霊見替」と刻まれています。この碑は明治以降に作られたものですが、この地には行信が義経の身代わりなったという言い伝えがあります。

そして東北には義経の伝承が宮城から青森まで転々とあるのです。

宮古市「黒森神社」、久慈市「諏訪神社」、八戸市高舘「小田八幡宮」、青森市「善知鳥神社」、東津軽郡外ヶ浜町「義経寺」

そして義経は津軽海峡を渡り蝦夷に入ります。

 

津軽までは上記のほかにも数多くの通過ポイントの伝承が残っているのです。

 

北海道では日高平取に「義経神社」があります。

義経神社

義経神社に由緒は

【義經神社】の始まりは1799年まで遡ります。現在の【北海道】【平取町】の【アイヌ】の人々が【源九郎判官義經公】を慕い、【カムイ】(神)と崇敬している。この事を知った江戸幕府の巡検使・近藤重蔵が、義經公のお姿(木像)を江戸の神田で奉製し平取町のアイヌの酋長(リーダー)に贈ったことに始まります。明治政府による【北海道命名】が1869年ですから、北海道の歴史よりも70年も前、北海道が蝦夷地と呼ばれていた頃から存在する歴史ある神社です。

義経神社ホームページより引用

また義経像も祀られています

義経神社2

 

ここまでが義経は蝦夷 平取までの足跡です。

平取の首朝の娘チャレンカと恋に落ち、その後積丹半島に行き、日本での足跡は消えてしまうのです。

また水戸光圀は義経の北行伝説に注目し、船をしたてて数回におよび蝦夷地を調査しています。確証は得れていませんが、調査団は義経・弁慶にちなんだ地名があること。そしてアイヌの人々から神とされる「オキクルミ」として崇められていると伝えています。

 

義経=チンギスハン伝説

ここからは義経が大陸に渡ってチンギスハンに成ったのか?ということになります。

まず、義経=チンギスハンを唱えたのはシーボルトといわれています。

確かにチンギスハンと義経の生きた年代は重なります。

 

義経

 

チンギスハン

京都で源義朝の9男

幼名は牛若丸。

1159

 

 

不明

モンゴル中央高原で

チンギス・ハン誕生する。

鞍馬寺に預けられる。

1169

 

義経は奥州にいく。

1174

 

壇ノ浦の合戦で勝利

1184

 

平泉で自害

1189

 

 

1190年頃

十三翼の戦い

 

1196

タタル討伐

 

1206

戴冠


・両者とも背は高くなかった。
・ジンギスカンの前半生には空白部分が多い
 義経=チンギスハン伝説の元になっている根拠に一例です。

・成吉思汗が1206年にハーンに即位した時の「九旒の白旗」の建立は源氏の氏の長者、武家の棟梁の宣言ではないか。「白旗」は源氏の旗印であり、「九旒」は九郎判官を意味するものではないか。

・成吉思汗はニロン族、すなわち日の国よりきた人として蒙古に伝えられている。この「ニロン」とは「ニホン(日本)」のことはないか。

・成吉思汗は別名を「クロー」と称した。これは「九郎判官」ではないか。また、軍職の名は「タイショー」として現代に伝わる。蒙古の古城跡では「城主はクロー」と称していたという言い伝えがある。

・成吉思汗は紋章として笹竜胆を使用した。笹竜胆(源氏の紋章)を尊んだのではないか

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左が笹竜胆紋。右がモンゴル人が兜につけるという紋章
(出典:佐々木勝三、大町北造、横田正二『義経伝説の謎』勁文社)ASIOSよりお借りしました

 というのが義経=チンギスハン伝説です。

はんたして義経が大陸に渡りチンギスハンになったのか?

1823年に来日したドイツ人医師シーボルトがその著書「日本」のなかで義経=チンギスハン伝説を解くことでこの説はおおきくとりあげられることになりました。

明治から現在に至るまで義経=チンギスハン伝説には様々な意見があります。

題材にした小説もありますので、

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                  高木彬光「成吉思汗の秘密」

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かなりおもしろいです。

これを機会にイマジネーションを含ませてはいかがでしょうか

今回は今回は北海道の絶景パワースポット「積丹半島の神威岬」についてでした。