みなさん、こんにちは。
クラブワールドの大村真吾です。
四国八十八か所歩きお遍路 45日目です。
今日も本当にありがたい出会いがありました。

まず、出がけにホテルの前のファミレスで
朝食をしていると、昨夜もお世話になった、
仏師さんをご紹介してくださった
高橋さんから電話。
ずっと一緒にお遍路をしているてっちゃんと
話がしたいと。
てっちゃんは今、仕事をやめて
お遍路にこれているので
就職の話かな?面接かな?という雰囲気。
ずっと歩き遍路をしているのは4人。
4人それぞれ、この遍路中に転機のようなことが
起きているんですよね・・・・。
さて、どうなりますか。


第七十番札所 本山寺

大同2年(807)平城天皇の勅願により
弘法大師が七十番札所として開基。
当時は「長福寺」という名で、
本堂は大師が一夜ほどの短期間にて
建立したという伝説があるのだそう。


五重塔がシンボルです。

天正の兵火では長宗我部軍が本堂に侵入
住職を刃で切って進んだところ
脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち
これに驚いて軍勢が退去したたと言われています。
この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれているそう。
ここでも出ました長曾我部さん

こぶし程度の大きさの石に
般若信教の一文字を書いて
裏に願い事、名前などを書いてお供えする
という「経石」というのがあるのですが
僕たちは今日、8人だったのですが
ちょうど経石をしようとしたら
車遍路の仲間2人が到着したので
10人になり、うまく般若信教1文字ずつを
書くことができました。

ここではすごい方にお会いしました。
納経所で前に並んでいた方が高齢の方で
なにげなく話しかけたところ・・・
99歳でお一人で参拝にこられていて
もうお遍路は100回以上という
すごい方でした。

もってらっしゃる納経帖は朱印を重ねて
真っ赤です。
こんなの見たことありません!
少しお話をさせていただきましたが
耳は遠いけど、お元気でしっかりされていて
自然と涙が出てきましたよ。
お会いできて本当によかった。
裏に自分の住所や名前が入った(印鑑)
金色の納め札を人数分くださいました!
金色!すごいことですよ。


説明しますと・・・
納め札というのは、各お寺の本堂と太子堂に
参拝した際に1枚ずつ納める札なのですが
こういう冊子状になっています。
祈願すること、住所、名前などを記入します。
100枚とか200枚束なんです。

お接待の返礼にお渡ししたり、
お遍路さん同士の
名刺のような使われ方もするんですよ。

白:1~4回、
青:5~7回、
赤:8~24回、
銀:25~49回
金:50~99回
錦:100回以上

となっています。
通販でも購入できますが、白は1束100円程度
銀・金は少し高いです(笑)。500円程。
錦は楽天では100枚で11,000円でした!
どんなに少なくても88か所x2枚必要です。
錦はだいぶレアですので、普段は金をお使い
なのでしょうね。。。

1回でも大変なお遍路を100回以上とは!!
すごい方にお会いできました。ありがたいことです。

第七十一番札所 弥谷寺


本堂は弥谷寺山頂に位置し、
岩壁に囲まれるように建っているお寺。 
ご本尊は千手観世音菩薩で、
今からおよそ1300年前
聖武天皇の勅願により、行基菩薩が堂宇を建立し、
疾病平癒の為、光明皇后により、
『大方広仏華厳経』がお祀りされ、
寺院を創建したといわれているそう。
華厳経以外にも、寺宝の経典の中には724年頃に
つくられた経典があるのだそうです。

古来より霊山(仏山)として信仰され、
日本三大霊場の一つに数えられたのだと。
『本堂下にある、水場横の洞窟が
神仏のせかいへの入口だ』といわれ、
修験者により刻まれた摩崖仏が
今も無数に点在しているそうです。


太子堂まで長い階段を進みます。
ここの太子堂がすごかったです。

大師堂の堂内奥には、岩屋が獅子の咆吼に見える
から獅子之岩屋と呼ばれる奥の院があります。
弘法大師が9~12歳の頃、この岩屋にて
修学(学問)に励まれたのだそうで
この岩屋の右手奥にある洞窟は経蔵として
使われていたとされ、大師はこの経蔵から
経典をとりだし、岩屋の窓(明星之窓)からの明かりで
勉強に昼夜問わず励まれたのだと。

なんというか、すごく弘法大師を感じられる
空間のように感じました。
包まれているような親近感もあり
今までにあまりない感覚です。
ここは僕の中でとても重要なお寺に
なったと思います。
大師が岩壁に彫られたとされる
「磨崖仏(まがいぶつ)」も見られますよ。

それ以外にも、弘法大師と守敏大師との
法力比べの昔話なども残っているお寺です。

第七十二番札所 曼荼羅寺


実は七十三番を先に参拝してしまって
時間がおしてしまい、閉まっていた納経所を
開けてくださったのが曼荼羅寺。

夕暮れになっていますね。

縁起によると、創建は四国霊場で
最も古い推古四年(596)。
讃岐の領主・佐伯家の氏寺で
「世坂寺(よさかでら)」という名前だったのだと。
弘法大師が唐から帰朝した翌年に訪問された。
母玉依御前の仏果菩提を祈るためだったとも
いわれています。
唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。
本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と
胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に。

四国霊場の古い案内書には、樹齢1200年を超す
弘法大師お手植えの「不老松」の存在もでているそう。
すでに今は枯れてなくなっています。
曼荼羅寺の近くの「水茎の丘」に庵をむすび
7年ほど西行法師がおられたそうですよ。
この寺に通い、本堂前の平らな石の上で
よく昼寝をしていたようで、
この石は「西行の昼寝石」と呼ばれで今もあります。
気持ちの良い昼寝場所だったのでしょうね。

第七十三番札所 出釈迦寺

弘法大師が7歳の時。
我拝師山に登り
「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて
多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら
釈迦如来よ、姿を現したまえ。
もし叶わぬのなら
一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、
断崖絶壁から身を投じました。
すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と
羽衣をまとった天女が舞い降り、
雲の中で弘法大師を抱きとめました。
命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、
青年になって我拝師山の山頂で釈迦如来を
刻んで安置し、堂宇を建てたと書かれていました。

7歳で!すでに!

境内からかなり坂を上っていくのですが
「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所でしたが、
今は寺の奥の院となっているのですね。
弘法大師が身を投じた場所は、
さらに50mほど登った場所で
下を見れば足のすくむような深い谷底だそう。
今日は時間的に行けないので
明日再度訪れたいと思います。

今日の濃厚な1日を元気に過ごせました。
明日もしっかり参拝します。

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