こんにちは、極楽開運パワースポット巡りのスピリチュアルキュレーターの大村真吾です。

 

今回は「カミーノ サンティアゴ800km巡礼ブログ」です。巡礼の様子を綴っています。

 

1日目「ピレネー山脈越え」サン・ジャン・ピエ・ポーからロンセスバージェス

1日目(令和元年8月21日)

 

カミーノ巡礼の出発地はフランスのサン・ジャン・ピエ・ド・ポー。

 

ピレネー山脈のふもとにある小さくて可愛い町です。

 

昨日私たちはルルドからバイヨンヌで電車を乗り換えてここまでやってきました。

 

サンジャンの様子は動画にもアップしていますのでご覧ください

 

 

お菓子のマドレーヌの由来とは?@サン・ジャン・ピエ・ド・ポーからライブ配信

サンティアゴ巡礼の出発地サンジャンピエドポーの町並み

 

見てみてくださいね、なんとなくサンジャンの街の様子がわかると思います。

 

そして、いよいよサンジャンを出発してピレネー山脈へ

 

はっきりいってキツイです。

 

朝早くに出発、6時から6時半には出ることをお勧めします。その理由はロンセスバージェスまでは25キロなのですが、なんといってもピレネー山脈の山越えなのです。サンジャンの海抜は約200メートル、途中の峠レポエデールの標高は1429メートルなので1230メートルあまりを登ることになります。距離数以上に時間がかかるのです。

 

 

 

6時30分 サンジャンのアルベルゲを出発。

 

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サンジャンの町を出て巡礼路は2種類にわかれます。目印は白と赤です。白は比較的ゆるやかな道です。多くの巡礼者は古来からある赤いコースを行きます。

 

 

 

急な舗装路の上り坂を5キロいくとフントという集落につきます。ここのカフェ(開いてるような開いてないようなカフェ)があります。椅子があり水を汲める場所もあります。トイレもあるのでここでひと休み。

 

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フントからは更に上り坂が急になる感じがします。雲海から出る日の出を見ながら1.5キロくらいの坂を登るとオリソンに到着。

 

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ここにはアルベルゲとカフェがあります。眺望のよいテラスのような場所にテーブルと椅子があるので休憩&ブランチに最適です。ここにも給水所があります。もちろんトイレもあるのでカミーノ巡礼の洗礼をうける巡礼者にとっては恵みの休憩所です。

カミーノ巡礼、歩き始めて8キロのオリソンからライブ配信

 

オリソンからまだ急な上り坂は続きます。それを補うにあまりある眺望の良さ。牧草地の羊たちの光景が辛い体と気持ちを和らげてくれます。

 

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すこし勾配がゆるくなり360度に牧草地がひろがると十字路の左にこんもりとした岩山が見えてきます。この岩山の上にマリア像があるのです。これがビルコリアの聖母といわれています。マリア像の先は絶壁。晴天の青にマリア様が映えます。ここでしばし休憩。自転車でカミーノ巡礼をしている韓国人のグループと話をしていたら私たちひとりづつに韓国のりを頂きました。欲しかった塩味!!彼らはサポートの車が並走していて荷物は全部その中に乗せています。どうやらランチタイムで火をおこしラーメンを作っているようす。美味しそうです。彼らにお礼を言って再び歩き出すことに。

 

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草原地帯を登っていきます。

 

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しかし今までの登りよりはすこし勾配はゆるやかになっています。ビルコリアの聖母から1時間くらい歩いたでしょうか。道の先に白いバンが見えてきます。この車を待ち望んでいました!! 2年前もこのバンにどれだけ助けられたか。水や飲み物、くだものやスナック類の販売カーなのです。ここが実質上フランス最後のお店でスタンプも押してもらえます。ここでコーヒーとバナナを買って一休み。まさにオアシスです。

 

 

バンから1キロほどは上りが続きます。

 

あと5キロほどが比較的平坦&登りをいくと標高 1429メートル の レポエデール 峠に到着します。

 

 

ここからは急激なくだりが5キロ続きます。登りもつらいが下りもつらい。膝に負担がかかります。

 

延々とくだっていくと比較的ゆるやかな森の中の下り坂にかわります。やがてあと1キロくらいで平坦になり突如としてロンセスバージェスの教会が姿を現せます。この教会に併設されている大きなアルベルゲに宿泊。

 

 

夕食はアルベルゲで予約をして教会の横にあるレストランで頂きました。

 

夜のミサがあったのですが、睡魔に負けてそうそうに就寝。

 

1日目の難関ピレネー越えを無事終了しました。

 

 

 

行程

 

6時20分 サンジャン出発

 

8時2分 フントに到着、休憩 8時15分出発

 

9時25分 オリソンに到着、休憩 10時18分出発

 

11時40分  ビルコリアの聖母 に到着、休憩 12時出発

 

13時 販売カーに到着、休憩 13時16分出発

 

15時30分  レポエデール 峠

 

17時 ロンセスバージェス到着

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2日目「陽気なラテン民族」ロンセスバージェスからズビリ

 

2日目(令和元年8月22日)

 

今回は「カミーノ サンティアゴ巡礼ブログ2日目ロンセスバージェスからズビリ」です。

 

 

ロンセスバージェスのアルベルゲに併設されているレストランで朝食、そのままズビリへ歩き始めます。昨日の山越えの疲労が若干残っていますが、みんな元気そう。

 

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アルベルゲを出たところにサンティアゴまでの標識がでていたのでそこで記念撮影。はるか700km以上先の標識があるのはカミーノらしいです。

 

フラットの道が続くので足取りも軽く30分ほどで小さいマーケットがあります。そこで昼食がわりの果物などを購入。

 

 

そこからしばらく進むとヘミングウエイが泊まった宿があります。彼はここでマス釣りをよく楽しんだそうです。

 

 

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このまちの教会をすぎて小道を右折。小川がながれる橋をわたって緑の中をすすみます。

 

 

2年前見たときはピレネー越えの疲れがどっときて足が重かったのですが、今回はそうでもありません。一緒の3人もそんなにつらくなさそうです。

 

 

途中で巡礼中にこの地でなくなったYAMASHITA SHINGOさんの慰霊碑の前で黙祷。2002年に64歳でお亡くなりになられました。ズビリ目前での急死。そしてここをお参りしてくれている人たちがいることに感謝です。2年前はここで琵琶奏者の黒田月水さんが般若心経を琵琶演奏で唱えました。

 

 

エロ峠の売店で休憩をしてズビリへ。

 

アルベルゲは El Palo de Avellano 2年前は満室だったところです。ズビリはアルベルゲがそんなに多く、ズビリ以上に歩く人も少ないためか部屋が混んでいることが多いよう。今回はあらかじめ予約をしておいて正解でした。

 

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夕食もアルベルゲで食べることができます。13.5ユーロとちょっと高めのメヌーですがサラダもどっさりでてきてなかなか美味しかったです。

 

次の宿泊先まで荷物を送るサービスがあって、同席のスペイン人おじさんとイタリア人おじさん、フランス人おじさん、ブラジル人おばさんがその話をしていました。かみ合わないような、かみ合っているような微妙な会話が面白かったので思わず参加してしまいました。以下現場の実況です(たぶんに私の想像がはいっています。ご容赦を。ちなみにおじさん達は65歳以上、おばさんは50歳代か?)

 

スペイン人男性「荷物って送れるんだよな」(スペイン語)

 

フランス人男性「ああこの紙にお金入れておくるんだべ」(スペイン語)

 

ブラジル人女性「え~なんのこと?」(これポルトガル語)

 

スペイン人男性「荷物送れるんだよ」(スペイン語)

 

フランス人男性 イタリア人男性「そーいうこと」(スペイン語)

 

ブラジル人女性「えっつ? 何??」

 

スペイン人男性「ポルトガル語かい?」(たぶんスペイン語で)

 

ブラジル人女性「そーよ ところでそれはなに?」(ポルトガル語)

 

フランス人男性「荷物をつぎのアルベルゲまで送ってくれるの、その封筒だべさ」(スペイン語)

 

スペイン人男性「5ユーロだよ。そんでもってオイラ達の名前はシスコ」(スペイン語)といってイタリア人男性を指さします。

 

フランス人男性「シャンピオ~~ン」といってイタリア人男性を指さします(フランス語らしい)

 

スペイン人男性「シスコ~~」 「シスコ~~」 「シスコ~~」 連呼

 

イタリア人男性「2回」(たぶん2回チャンピオンになったのか)(イタリア語)

 

ブラジル人女性「いくらなの?」ブラジル語

 

フランス人男性「5ユーロだべさ」(スペイン語)

 

スペイン人男性「シンコ シンコ シスコ~ シスコ~」(スペイン語)(シンコはスペイン語で「5」のことです)

 

ここで私の出番だと直感しました。

 

私 封筒を指さして「シンコ シンコ」 自分を指さして「シンゴ シンゴ」

 

おじさん達と おばさん私を注目

 

一瞬の沈黙

 

スペイン人「お前の名前はシンゴか おれはシスコ わははは」

 

私 手を開いて5をしめして「シンコ」、自分を指さし「シンゴ」、股間を指さし「チ●コ」というと 大笑い

 

さらに拍子をつけて「シンコ シンゴ チ●コ 、シンコ シンゴ チ●コ 」

 

さらなる爆笑

 

最後にイタリア人男性の股間を指さし「シャンピオン チ●コ」

 

でダメ押しと思いきや

 

イタリア人男性「2」で笑いを全部もっていかれちゃった

 

という楽しい夕食でした。

 

言葉はあまり関係ないみたいですね。ラテンの人々は面白いです。

 

どうやらイタリア人のおじさんは自転車のロードレーサーのようです。若いときにチャピオンになったのでしょうね。

 

行程

 

8時00分 ロンセスバージェス出発

 

9時50分 エスピナル着

 

11時50分 リンツアアオイン着 小休憩 12時15分発

 

13時13分 YAMASHITA SHINGOさん慰霊碑 13時20分発

 

13時50分 プエルトエロ移動販売車 14時05分発

 

15時00 ズビリ着 

 

 

 

3日目「優しい道とヘミングウエイのカフェ」ズビリからパンプローナ

 

3日目(令和元年8月23日)優しい

ズビリからパンプローナは21kmの平坦な道のりです。

カミーノ3日目 ライブ配信

 

 

7時50分 ズビリのアルベルゲを出発。ズビリを出てしばらくは右手に工場をみながら歩くことになります。ススキのような草の中を進み、ときに森の中のような気持ちのよい道が続きます。

 

 

 

ズビリからパンプローナは平坦な道なので初日とくらべれば天国のよう、初日の疲れが体に残っていた2日目とくらべても体が慣れてきたのか足取りも軽く歩むことが出来ます。

 

思い返せば2年前は3日目にも疲労が残っていて歩くのが辛かったおぼえがありました。それにくらべると天と地の差。一緒に歩いている美由紀さん、裕子さん、美香さんも平気そうです。ちなみに美香さんはお遍路も歩いているのでプロ級の安定感です。(関係ないですが、美香さんのお姉さんのお名前は恭子さん。叶姉妹か!!すみません・・・)

 

途中で木の実をとっているおじさんとおばさんに遭遇、何を採ってるのか尋ねると「アニス」とのこと。食べれるの?と聞くと二人そろって首を横にふります。二人の動作が合っていて可愛い。よくよく聞くとお酒を造る実のよう。そういえば「アニス酒」というのがあったことを思い出しました。このあたりの名産だといってました。するとこんな看板

 

 

あっという間にアレの街まで到着

 

2年前はこの町にとまりましたが、今年は休憩もせずにアレを通過。絶好調!!と思いきや町を出たところから急に登り坂。いままで天国♪♪と思っていたメンタル、フィジカルに隙あり。急に体が重くなります。

 

 

 

 

トリニダードアレにつくと、そこはパンプローナのベッドタウン。ここからアスファルトが続くので余計に体に負担がかかります。

 

目前に緑が見えてくると、そこはパンプローナの城壁の外の公園。

 

 

パンプローナかっこいい!!

 

 

ここから街の中にはいります

 

 

パンプローナといえば牛追いの祭で有名です。この街並みの中を牛と大勢の人が駆け抜けていきます。あとパンプローナで有名なものがヘミングウエイの通ったカフェ イルーナ

 

 

 

メヌーの中にガスパチョがあったので迷わずチョイス

 

 

ガスパチョがあれば元気になれる!!!!!!!!!!

 

 

 

 

ヘミングウエイと2ショット。

 

あとはアルベルゲに泊まって3日目も無事終了

 

行程

 

7時50分 ズビリ発

 

9時26分 ララソーニャ着

 

10時19分 スリア―ニ着

 

11時51分 イロッソ着

 

13時50分 パンプローナ着

 

 

 

4日目 ザビエルの生家ハビエル城へ

4日目(令和元年8月24日)

 

フランシスコ.ザビエルの生家ハビエル城からライブ配信

今日は一日お休みの日。といってもアルベルゲは朝8時にはチェックアウトしなければなりません。宿を出て近くのカフェで朝食。大聖堂は9時に開門まのでそのれまでカフェで時間をつぶします。

 

とはいうもののカフェで意外に時間を過ごしてあわててパンプローナの大聖堂へ

 

 

よく見ると右側の時計が普通とは違います

 

 

日時計です

 

こういう塔に日時計とはかっこいいです。

 

 

中に入ってみるとミサが行われていました。

 

その奥にはマリア様が祀らています

 

 

このマリア像は実際にはさらに光り輝いていました

 

 


あっという間に時間が過ぎ去り、今日の目玉であるハビエル城に行くことに。
ハビエル城はパンプローナからは車で1時間の距離、どこかでタクシーを見つけなければなりません。そこでこまったのが何処にタクシーがいるのかがわからない!!パンプローナは城塞都市なので市の中心部は車がほぼ通ていないのです。そこで博物館に行ってみることにしました。しかし周りにタクシーが停まっている様子はありません。試しに博物館の受付のに行ってタクシーを呼びたいというと電話番号を教えてくれました。ついでに電話までしてくれて、実際にタクシーがくるまでの確認までして見送りまでしてくれる念の入れよう。受付の警備のおばさん、ありがとう!!

 

 

 


一路ハビエル城へ

 

 


ハビエル城とは1549年に日本にやってきたフランシスコ ザビエルの生まれ育った家なのです。

 

 


彼はスペインのナバラ王国の生まれなのです。ここパンプローナやハビエル城があるのはナバラ県。昔の王国がそのまま県名になっています。その王国の貴族の家の生まれたのです。ハビエル城はその後戦争で破壊されるのですが、再建されていま博物館になっていて当時の絵画やハビエルの伝記、功績、家系などが展示されています。

 

 


19歳でザビエルはパリに留学、そこでイグナチオ・デ・ロヨラと運命的な出会いをします。イグナチオから強い影響を受けてザビエルは聖職者を志すことになります。その他5人の仲間と合計7人で「神に生涯を捧げる」という誓いをたてますこれが「モンマルトルの誓い」となりイエズス会の創立となります。

 

 


世界中にキリスト教の布教を目指したイエズス会はポルトガル国王のジョアン3世の要請でポルトガル領であったインドに赴くことになります。ザビエルはそこに加わりアフリカ経由でインドのゴアにたどり着きます。そこで仏教の僧達にキリスト教を説き、一人をキリスト教に転じさせることにも成功します。
また浜辺で祈っていたときに波にロザリオがさらわれるのですが、翌日浜辺でロザリオをツメにかけた蟹を発見するという奇跡も起こったりします。 

 

 

 


そしてマレー半島にわたり、そこでヤジロウと出会いザビエルはジャンク船に乗り鹿児島にたどり着きました。

 

 

 


京都に行き天皇陛下、将軍に謁見をもとめますが、外見にこだわっていなかったザビエルは謁見に能わずと判断され拝謁をすることはできませでした。
その後、山口で大内氏に謁見が叶い布教を認めらます。その際に盲目の琵琶法師が洗礼を受けたロレンソ了斎など600人以上を信徒にしたといわれています。

 

 


2年の滞在ののち中国での布教の必要を感じたザビエルは日本を出て広東を目指します。結果的にはそこで最期をとげてしまいますが、一緒に日本を出た4人の日本人のうちの一人ベルナルドはポルトガルにまでわたり留学をしてローマ法王に拝謁までしています。ベルナルドは日本にはもどらずコインブラで亡くなっています。
このようにザビエルと日本は深い関係があるのです。

 

 

パンプローナにくると是非とも行ってほしい場所です。

 

4日目はハビエル城に行って、帰りはタクシーでシースルメノールのアルベルゲで一泊。これで今日は終了です

 

 

 

5日目「ぺルドン赦しの丘とマリア」シースルメノールからプエンタラレイナ

5日目(令和元年8月25日)

 

マルタ騎士団のおじさんにみおくられてシースルメノールを出発。

 

 


今日はぺルドンの丘を越えるので早めに起きて6時40分に出発。足取りは軽い。
もう枯れてしまったひまわり畑を横目に見ながらぺルドンの丘に近づいていきます。

 

 

 


途中、慰霊碑とベンチがあるところで休憩。
しばらくすると登りに入っていきます。
丘の上には風車が丘の端から端まで数十キロも並んでいます。

 

 


しかし無風で羽は回っていません。
出発の時には朝靄で丘の姿は見えなかったですが、
日が昇るとともに視界がよくなり真っ青の晴天になりました。
ぺルドンの丘は「赦しの丘」。昔は今のように道は整備されてなく、サンティアゴに道は困難を極めました。
マルタ騎士団などが守ってくれるといえども野犬や盗賊にも襲われたようです。
元来サンティアゴ巡礼は自分の家から始まります。
するとサンティアゴに着くのは至難の業で、この丘までくることができたら、サンティアゴまで行けたのの同じにしようという言うなれば免罪符のようなものが施されたようです。そこでぺルドン許しの丘と名付けられたといわれます。
丘の上はカミーノの前半部分のハイライトともいうべきオブジェがあります。

 

 


ここで記念撮影をしたり休憩をしたり巡礼者は思い思いの時間を過ごします。
車でここまで登ってくる観光客の姿も見えるほどここは名所となっているのです。

 

 


丘をおりるとウルテガの裏に着きます。
ここには村の始まりにマリア像があります。

 

 


このマリア像はこの場所にマリア様が出現したことを示すものなのです。(バチカンが認めるまでには至ってないのでしょう)
マドリッドからきた巡礼者がこの村の井戸の近くで休息をしていました。するとそこに6歳くらいの少女があらわれて色々と質問をしてきたそうです。
不思議に思ったその巡礼者はよく少女を見てみると光り輝いたそうです。
話すことやその精神性の高さ、光り輝いている姿からこの少女は聖母マリアに違いないと彼は確信しました。
それ以降毎月第一土曜日にここに参拝を重ね、亡くなるまで欠かさなかったそうです。
そういったいわれのあるマリア像なのです。
しばしそこで静かな時間を過ごし再び歩き始めます。
ムルサバルの村ではカミーノが二手に分かれます、エウテナを経由していく少し遠回りな道と、オバリスを通る近い道。近いほうがフランス人の道ですのこちらを通ってプエンタラレイナに到着。

 

5日目の行程

 

6時40分 シースルメノール出発

 

8時30分 サリエリギ手前のベンチ 8時40分発

 

9時20分 ぺルドンの丘 9時40分発

 

10時30分 ウルテガ マリア像 10時50分

 

11時30分 ムルサバル

 

12時40分 プエンタラレイナ

 

 

6日目「パエリアとガスパチョとお姉さんの優しさ」プエンタラレイラからエステージャ

6日目(令和元年8月26日)

今日はプエンテラレイナからエステージャまでの22キロ。

カミーノ巡礼6日目 ライブ配信


プエンテラレイナには王妃の橋といわれる美しい橋があります。

町の川のほとりにあり、その橋を渡ってエステージャに向かうことになります。

しかし、朝6時半に出発したため、まだ真っ暗で橋の写真を撮ることができませんでした。町を出て緩い登りが続きます。


緩い下り登りを繰り返してるうちにブドウ畑がちらほら出てきます。

隣ののリオハはワインで有名ですが、カミーノ上ではナバラやガリシアのワインも有名ようです。


途中にローマ時代の道をところどころ歩いていきます。

全ての道はローマに通じる。2000年前にこの道がローマにまで続いていたなんて考えるとワクワクします。

道であることを堅持するために石畳を作っていったのでしょう。今でもその痕跡が残っています。

カミーノという言葉も「道」です。道があるから文明は栄え、広がり、道の上に人が集まり文化や習慣が形作られる。インカ帝国もその基礎をなしたのは「道」であったとも考えられます。

道の横に手を伸ばせばある実を時々口にしながら歩き続けます。酸味と甘みが身体を癒してくれます。

ゆったりした登り下りを快調に歩いてロルカの町に到着しました。二年前はこの町で力尽きて歩くのをやめてしまった所です。

その際に飲んだガスパチョが美味しくて生き返ったことがカミーノの鮮明な思い出になっています。


今回もそのお店に入りまガスパチョを注文。

パエリアも美味かったことを話すとブランチのような食事をすることに。

やっぱりここは安くて美味しい!ほとんどがシーズンが終わり枯れてしまっていたのです。

一時間くらい休んでエステージャを目指して再び歩きだします。

するとひまわり畑が出現。今までもひまわり畑は沢山あったのですが、若干枯れ始めていて、花は大地の方を向いてしまってますが、やはり綺麗。

正午をまわり日差しが強くなってきます。エステージャまであと2キロくらいからだんだん身体がキツくなってきました。


暑いなあまだかなと思う頃エステージャの緑の芝生と教会が現れました。着いた!
だけど今回のアルベルゲは町の端。そこまでが遠い。。。おまけにアルベルゲのある場所までは上り坂。やっとの思いで到着。


夕食は坂をくだった大通りのバー・レストランで巡礼者のメヌーを。サラダに煮込み風の牛肉。

どちらも美味しい。ふと気づいたら外は大目。傘もカッパも持って来てないのでずぶ濡れになってしまう。しばらく待ってもやむ様子はなく、カミナリまで鳴り出すしまつ。
お店のお姉さまにタクシーを呼んでもらうことを楽しむと、数件のタクシー会社に電話をしてくれるも少なくとも45分は来ないとの。10時頃になっていたのでお店の時間を確認すると、タクシーが来るか、雨が止むまでお店にいていいですよとのこと。優しい! カフェコンレチェを注文してしばらくするとタクシーが来て武士道アルベルゲへ。

姉さんありがとう!!!

6日目も無事終了。

行程

06時35分 プンタ ラ レイナ出発

08時15分 シラウキ 小休憩 08時40分発

10時30分 ロルカ ブランチ 11時30分発

12時30分 ビジャトゥエルタ 教会たちより 13時05発

14時20分 エステージャ到着 

 

7日目「ワインの泉」エステージャからロスアルコス

7日目(令和元年8月27日)

エステージャからロスアルコスまでの22km

カミーノ巡礼7日目 ワインの泉からライブ配信

 

昨夜の大雨も止んでいる様子。雲はかかっていますが、薄く空も見えるので一安心。
エステージャの町のはしには星と人を型どったオブジェが見送ってくれます。


一時間あまりでイラーチェにつきます。
加治屋さんがカミーノに因んだ作品を作っておりテンプル十字のホタテを購入。ここでは二種類のスタンプを押してくれます。


ひとつはこのお店のスタンプ。
もう一つはロンセスバージェスから100キロのスタンプです。

このお店でカミーノの象徴であるホタテにテンプル騎士団の十字架がついたペンダントを見つけて4人そろって購入。


加治屋さんを出てすぐにワインの泉があります。ここは地元のワイン製造会社bodegas iracoがワインとミネラルウォーターを施してくれています。文字通り蛇口をひねればワインが出てくるのです。

二年前はあったコップの販売機はなくなっていたので、みんな水筒の水を捨ててワインを入れています。驚いたのは蛇口に顔を近づけて直のみしている人もいます、大胆!


イラーチェの村を出て尖り山のピコ ラ モンハルディンを目印に進みます。この山は昨日エステージャの手前からでも見えていました。


山の麓に同じ名前のモンハルディンに到着。
ここから先は12キロ村も町もない区間です。二年前は炎天下の暑さにやられて途中で野シエスタをしてしまいました。



今回は曇り空に救われて順調に進み、途中の移動販売車カフェで休憩。

二年前はこの営業も終わってる時間まで歩いてました。
しばらくして晴天になり日差しがきつくなりますがロスアルコスに無事到着。


今日のアルベルゲはおばあちゃんマークのCasa de Abela。

味しそうな臭いがしてるので夕食と朝食もお願いすることに。
順調に巡礼7日目も終了

行程

7時40分 エステージャ

8時15分 鍛冶屋 8時30分発

8時35分 ワインの泉 8時55分発

09時55分 アケスタ

12時38分 移動カフェ 13時05分

14時35分 ロスアルコス

 

8日目「神の計らいが起きた!!」ロスアルコスからヴィアナ

8日目(令和元年8月28日)

ロスアルコスからヴィアナまでの18.5km

カミーノ8日目ロスアルコスを出発 ライブ配信

今日はあまり長い距離ではないので余裕の出発。
普通のスケジュールではロスアルコスからログローニョまでの28kmを歩くことがおおいですが、ヴィアナとログローニョの間に町がないので無理せずヴィアナで泊ることに。

朝日を受けながら軽快に進みます

1時間半くらいでサンソルの村に到着、すぐ隣にもうひとつ村があるのでそこまで休憩なしであるくことに。

ほんの1kmくらいでトレスデルリオの村に到着。

この村には小さな八角形の教会があります。

ここは入場料が1ユーロなのですが、なんか落ち着くところで2年前はここで黒田月水さんが琵琶の演奏をしました。すごくよかったので引き続き今年もやってきました。

しばらく佇んだのちに村を歩くとテンプル騎士団の十字架を掲げているカフェ&アルベルゲを発見

昨日ペンダントを買ったところなので気になって入ってみることに。

すると陽気なスタッフとお客さん達ばかりであっという間に時間が過ぎてしまいます。

お客さんのメキシコ人のカルロスとは今年の11月に私がメキシコに行くのでその時会おうかという話にまでなりました。

昨夜、ヒーリングピアニストに松尾泰伸とメッセンジャーでやりとりをしているうちに来年か再来年松尾さんもカミーノを歩くという話になったのです(まだ未確定です)

八角堂の教会かこのアルベルゲの庭で松尾さんのライブが出来ればいいなあなんて話をしていました。テンプル騎士団のアルベルゲのスタッフに聞いてみると「可能だから、そのとき連絡をくれ」とのこと。

なんだか縁がつながっていきます。

そこにまたイタリア人のおばちゃんが話に加わってきて「あたいはブルゴスの先でアルベルゲをやってるから是非泊ってよ、もちろん料理はイタリアンよ。絶対よ!!!」といってきた。シーシーなんて気軽に答えたらスケジュール上中途半端な場所で行程の組み換えが必須の感じに。だけどこれも縁なので是非よてみようと思います。またその報告はその時に。

ゆっくりしすぎたマルタ騎士団をあとにしてヴィアナを目指します。

ここから先は丘を登ったり下りたりしながらオリーブ畑とぶどう畑の道をすすみます。

途中にエルミタ デ ラ ヴァージン デル ポヨという小さなマリア教会をとおり、そこから4.7キロでヴィアナに到着。

泊まろうかなと思っていたアルベルゲに何度も電話をしていたのですが繋がらず、訪れてみたら閉店のよう。

それならばと違うアルベルゲを目指しヴィアナの街の中を歩いていくうちに2年前の記憶が蘇ってきました。

たしかこの道の先の右側にホテルがあり、そこのレストランが美味しかったこと、その左側にかっこいいアルベルゲがあったこと、遺跡の教会が美しかったことなどが走馬灯のように思い出されました。

あのアルベルゲが閉まっていてよかった!! 神に感謝です。 そのかっこいいアルベルゲANDRES MUNOZに宿泊。

ランチはホテルのレストラン。

遺跡の教会で写真を撮って、ここで松尾さんのコンサートができたらいいなあとビデオメッセージを松尾さんに送ったりして、マーケットに行くことに。

途中でフットバスの看板を見つけて立ち止まっていると、おじさんが「フットバスやりたいかい?」と話してきました。

いくらか尋ねるとドネーションとのこと。ならば入ろうということになり4人でお店の中へ。

なんかオシャレなカフェのよう、飲み物はいろんな国のビールやアイスティー、アイスコ―ヒー、ハーブティーなどと書いています。

フットバスはホットかアイスどちらがいい?と聞かれたので、どっちがおススメかと尋ねると、アイスだねと即答。

ならばアイスでお願いしま~すと4人そろってアイスを希望。

冷たい塩水に足をつけていると熱かった身体がクールダウンしていきます。

話していてスペイン人じゃないなあと思ったので、どこから来たの?と尋ねるとカナダ人とのこと。

そこから話がはずみ、おじさんとおばさんは僕たちと同年代で養子を二人とっていて、そのうちの一人の娘(もう28歳)は日本人とのハーフ。だから愛犬の名前は「スキ」、彼女は去年の10月に結婚したばかりで・・・

そんな話をしているうちにスピリチュアルな話題に展開。

この施設はクリスチャンの教団の施設だそうで、お二人は3か月前から前任者から引き継いでここでやっているららしい。

瞑想のはなしなどをしていると、聖書をよみながら目を閉じて静かな時間を過ごそうということになり、お店をクローズして30分ほど瞑想タイム。

奥さんの読む聖書と私たちにしてくれたチャンティングが暖かくて胸を打ちました。

感謝を伝えて、また雑談をしている際に、あの教会みたいなものは何ですかと尋ねたところ、1800年代に戦争で破壊されてしまった教会で、いまはそのときの破壊されたまま保存されていると、そしてそこではコンサートがあったりするのよというのです。

えっつ!? 今コンサートっていったよね。と思いつつ聞き直すと、そうよコンサートとかイベントをやってるわよというではないですか。

私は松尾泰伸というヒーリングピアニストがいて、その教会跡でコンサートが出来たらいいなあと考えていたところなんですよと伝えると二人も驚いてる様子。

どうしたらあそこでコンサートが出来るかしってますか?と尋ねると、じゃあヴィアナの観光局に行こういうことになったのです。

観光局に行くと、名刺をもらい外国人でも借りることができること、ピアノは教会にはないけどしかるべきところから借りることができること。などが分ったのです。

これは何の計らいでしょう。

早すぎる展開。

シンクロの連続。

神は確かに私たちを導いてくださっています。

行程

7時30分 ロスアルコス

9時00分 サンソル

9時17分  トレスデルリオ 10時45分発

11時30分 マリア教会

13時15分 ヴィアナ 

 

9日目「葡萄とサクランボとアーモンド」ヴィアナからナバレテ

9日目(令和元年8月29日)

ヴィアナからナバレテの21.5km

カミーノ巡礼9日目 昨日起きた奇跡的なことなど。ヴィアナ付近からライブ

ヴィアナのかっこいいアアルベルゲを出て歩き出します。

しばらくすると朝日がノートパソコン昇り、背中から太陽に押されるようにエネルギーを得て進みます。

基本的にカミーノは東から西に進んでいきます。2年前は午後あることが多かったので西日を観ながら歩いていました。やはり朝日を背に受けて歩くほうが歩きやすい。スペインの西日はまた強烈なので正面から受けてあるくのは辛いです。

昨日の奇跡のような出来事をyoutube「しんごちゃんネル」でライブ配信をしながら歩きます。(巡礼中、毎日スペイン時間の朝8時・日本時間の午後3時に生配信をしています)

前半はこれから先にあるアルベルゲの壊滅的なメニューとバーコードのおじさんの話をしていますが、後半は昨日の奇跡の話とその奇跡に関係するヒーリングピアニストの松尾泰伸さんの話をしています。

ちなみに私はファンクラブの会長、一緒に歩いてる美由紀さんは会員番号34番、裕子さんは会員番号36番なのです。美香さんには鋭意会員になってもらうべく勧誘をしています(笑)

そんな話をしながら約9.5キロを歩きログローニョの町に到着。

橋を渡って市街地にはいります。

ログローニョの街で道路にある矢印はこれで統一されています。

昨日教えられたようにカミーノの道ではなく大聖堂の方にいきます。

まずは大聖堂に入りご挨拶。

静寂のなかに聖母マリアさま

素晴らしい静寂感。シスターが手招きをしてくれたので事務所の中に入れてくれてスタンプを押してくれました。

日本人ですか?と尋ねられました。はいと答えると、奥から白い紐を持ってきて「これは日本で作られました。エー エー クミヒモ?」と言われます。はじめはピンと来なかったのですが、そうです【組紐】です。白いシルクをかなり多く使った組紐でした。ここでそのようなものを拝見できるとは・・・。昨日に引き続き何かに組み込まれているような気がします。

大聖堂を出てブランチをとることに。

11時ころにカフェを出て歩き出しますが、町は大きく巡礼の道らしい道がなかなか出てきません。

公園の中を延々と歩き続けます。遊歩道のような道が町はずれのグラヘラ公園、その先のグラヘラ池までつづいています。

もう長いのなんのって

暑いのなんのって

もうキツイの一言。

ここを地元の人はジョギングや散歩をしています。

あらためて地図を見てみると

 

ログローニョからなナバレテまでは約13km。そのうち遊歩道が半分近くもあるのです。考えようによってはコンクリートの道をいくよりはありがたいのですが、あまりにも長すぎて、暑すぎてぐったりしてしまいました。

ちなみに途中池のほとりにカフェがあります。

その暑い中、マリアさまのお御堂が現れます

 

これをすぎると遊歩道から普通の道にかわっていきます。

途中にリオハワインの葡萄畑、アーモンド、サクランボと果実を手にすることができます。

といっても葡萄は人のものですが・・・

ちょっと摘まむ果実が少し暑さを和らげてくれます。

だけど暑い・・・

なんとかナバレテの村に到着

大聖堂があったので逃げ込むように中に。

こんな小さな村なのにこんな立派な大聖堂があるなんて驚きです。

その昔、巡礼者にとって大聖堂は教会は救いの場所だったのでしょう。

大聖堂の中は厳格ではありますが、静かで涼しくて清らかです。

現代の私たちにも、これだけの癒しを与えてくれるのですから、当時は比較にならないほどの安心感をもたらしたのだと思います。

やっとの思いで到着した今日の宿泊所はA la Sombra del Laurel。4人部屋は広くて快適、色合いもいい感じの部屋なのです。

これで今日も無事終了

行程

      ヴィアナ 07時30分出発

09時49分 ログローニョ 大聖堂やカフェ 11時00出発

14時38分 ナバレテの村の入り口に到着

14時49分 大聖堂

15時12分 ホステルの到着

 

10日目【直感と示唆】【ジャコ様が舞い降りた】【セドナのようなパワースポット】ナバレテからアソフラ

10日目(令和元年8月30日)
ナバレテからアソフラへ 23.8km

今朝は朝6時50分に出発。昨日の午後の日差しが強すぎて、なるべく早くに到着したいのでいつもより早くに出発。

カミーノ巡礼10日目意識の変革!?ライブ配信

 

歩きはじめたら、すぐに前からおばさんの巡礼者がやってきました。

おばさんはだいぶ歩いたが矢印がみつからなくて戻ってきたとのこと。

色々聞いてみたら、おばさんが勘違いをしていると思い、一緒に行きましょうと連れていくことに。

おばさんは「この道からすぐに左に曲がる」というアドバイスを受けていたので、あまり私の話は聞いていない様子で、左側に道があると人の家にいく道であろうとずっと気にしている様子。

「すぐ左曲がる」ということにとらわれていたのです。

いちいち止まるので、すこしずつおばさんは私たちから遅れることに。

ふと気づくと、おばさんの姿が道から消えていきました。

しばらく行くと、左に曲がる矢印が出てきて、私たちはその道へ。

あのおばさんは何処に行ってしまったのだろう。心配をしながらも何処で消えたかもわからなかったので、そのまま歩いていくことに。結果的にその後、おばさんは正しい道に戻ってくるのですが、これは私たちに何を示してくれるのだろうと思い至りました。

あのおばさんは私たちに会わないと間違いなく山の中に迷い込んでいたはずです。そして私たちに会って軌道修正が出来たはずなのです。しかし彼女は自分の「直感」に従ったのです。「直感」に従うことは正しいことだと思います。私も概ね賛成なのですが、「直感」が外れる場合もままあるのです。一方で他者からもたらされる「示唆」があります。どうにもならなくなったり、自分のカンがはずれているときは「示唆」を受け入れてみることが重要です。この「直感」は内的情報で「示唆」は外的情報です。その使い分けを注意を払えというように思える出来事でした。

そんなことが起きつつ、私たちは次の町であるベントサに到着。


朝早く出てきたので気温も低めで歩きやすく快調に7.8Kmを歩き終えました。

そこで美由紀さんが「もうちょっと歩けるかも」と。実は今日はナラハという町までの18kmの行程を予定していたのです。ところがあっという間に半分近くを終えてしまったので「もうひとつ先の町まで行けるかも」ということになったのです。次の町はアソフラ。星の巡礼はシャーリーマクレーンの本のなかでも重要な出来事が起きる街なのです。

朝食を食べながら「アソフラまで行こうか・・・」と話していた時に一台のバンが私たちの前に止まりました。

そのバスは JACO TRANS

お~ジャコ様・神様・仏様!!!!

ジャコ様とは私たちが読んでいる敬称で、JACO TRANSとはアルベルゲからアルベルゲまで荷物を運んでくれる宅配サービスなのです。

ということは、バックパックをジャコ様に預けて、次の町のアソフラまで行けということか!!

話は即決、すぐにJACO TRANSおお兄さんを呼び止めてアソフラまでバッグパックを預けることに。

これで身も心も軽々とナラハへ。

1時間半あまりでナラハに到着。ここでサンタマリア修道院に立ち寄ることに。

ここが思いのほかのパワースポット。セドナのようなレッドロックが修道院の後ろに控えています。

建物が違えばセドナと思えるような場所です。

修道院は美しく中庭も美しいのですが、

驚いたのは修道院の奥。ここに入っていくと墓石がありちょっと入りにくい雰囲気。そこを越えると「えっつ何ここ?」という空気の変わりよう。その奥にマリア像が安置されていました。そこはレッドロックの洞窟のような感じ。もともとは洞窟にマリア像を祀っており、そこに建物を作っていき修道院になったのではないかと思えました。ここがいつまでも居れそうな空気感でした。

晴れやかな思いで修道院を出てアソフラへ。

14時過ぎに無事アソフラに到着。

行程

    ? ナバレテ   6時50分出発

8時10分 ベントサ  9時00分出発

10時51分 ナラハ  12時40分出発

14時10分 アソフラ

 

11日目 「セントドミンゴに起きた奇跡」カミーノ巡礼アソフラからサントドミンゴ デラ カルサダ

11日目(令和元年8月31日)

アソフラからサントドミンゴ デラ カルサダ 15.2km

ジャコ様の功罪 カミーノ巡礼11日目ライブ配信

 

アソフラを6時55分に出発。なだらかな丘陵地帯をカミーノは伸びています。昨日起きた出来事を振り返りながら歩みを進めます。

アソフラか9キロあまりは何もありません。2時間くらい歩いたところで移動カフェが出てきました。

飲み物を買って近くのベンチでしばし休憩。進行方向に建物が見えているので、すぐ先にシリニュエラの街がすぐにあるはずです。

まもなく左手にゴルフ場が見えてきました。

そこに面白い落書きがあります。

それは、巡礼のシンボルであるホタテ貝のオブジェなのですが、そこに上手く落書きがされているのです。

ホタテ貝の上に上手く「目」がかかれています。

これからは私の幻想です。このホタテに書かれた「目」はイルミナティをあらわしている。サンティアゴを行く人は基本的に徒歩か自転車です。

贅沢な旅行ではなく、無駄を出来るだけそぎ落とした旅のスタイルです。

一方、目の向こうにあるのはゴルフ場。ゴルフというスポーツを揶揄しているわけではありませんが、一般的な印象として清貧とは離れた存在です。

そこから巡礼者達を見る「目」。ゴルフは金持ち、政治家、事業家のイメージがあります。いわゆる支配層を連想させます。

イルミナティの印であるとされる「目」。これはアメリカ連邦準備局を創ったともいわれています。その際、世界中で流通するドル札、中でも一番多く流通し、多くの人の手に渡る1ドル札。

そこに描かれているピラミッドの上の「目」。これと同様、イルミナティはいつでもお前たち(巡礼者達)を見てるぞという意味に思えてしかたないのです。

様々なところに「目」は潜んでいて我々を見ています。千円札の中にも「目」は潜んでいます。千円札を透かして見てみると野口英世の左目に富士山が浮かんで見えます。まるで1ドル札のピラミッドにある「目」のようです。しかもこの左目が良く見ると異様な暗さを持っています。

さらに裏面の富士山は湖に映っている山とは全く違う山なのです。

そしてカミーノの終着点であるサンティアゴ デ コンポステラ。ここの大聖堂に祀られているヤコブに会うのがカミーノ巡礼のクライマックスなのですが、この大聖堂のボタフメイロ(香炉)は巡礼者を浄化するものとして(古くは伝染病や臭いを消すためともいわれています)大きく振り子のように降られます。

これは毎日行われるものではないので、この光景を観ることが巡礼者の僥倖でもあります。この香炉を吊るしている天井にも「目」が描かれているのです。

まさに上から巡礼者たちを見ているのです。

巡礼をすると、カミーノや四国の巡礼もそうですが何百キロも歩いたり、自転車で完走をすると心の中に何かしらの変化が生じます。それは個人によって違いますが、自分自身への自信の強さや、信仰の強さ、人との絆の強さなどが増すろ思われます。人が強さを持つのです。それが巡礼の力ではないでしょうか。全人類を我が物にしようと考える人たちにとっては「人類が弱く、愚かである」方が容易に支配しやすくなります。

それぞれの国や地域にある伝統や宗教、王家、民族意識、習慣などは彼らにとっては厄介なものなのです。

だから彼らは巡礼者を見ている、精神性や身体能力を高めようとしても、自己の覚醒を追及しても「我々の手の中なのだと」言わんばかりの「目」なのです。

というようなことを連想させる落書きなのでした。

というもののゴルフ場に併設されているカフェで小休憩をして(ちゃんとあやかってる)サントドミンゴに向かいました。

サントドミンゴ デラ カルサーダはサントドミンゴが大きくかかわっている街です。彼は近くのビロリア デ リオハの出身でナラハからレデシージャ デル カミーノまでの道を整備し橋を架け教会を作り巡礼者の救援施設などを作ったのです。大きくカミーノに尽力した彼をたたえて街に彼の名前を戴いているのです。

大聖堂に彼の棺はあり荘厳な廟が作られています。

この大聖堂は生きた白い鶏が有名です。

これは父母と息子の3人連れの巡礼者がこの町を訪れたことによる逸話です。

彼らは一軒の民家に一晩一食の恵みを受けたのですが、この家の少女が巡礼者の青年を好きになってしまいます。

離れがたく思った彼女は彼の荷物に家財を忍ばせたのです。

それにより彼は捕まり死罪が言い渡されました。

時の戒律で、巡礼者は沿道のものから盗みをすることを厳禁され、街道の人達は巡礼者を保護することが課せられていたのです。

これを破るとことは重罪とされていたのです。

少年は絞首刑になり、両親は悲しみに暮れながらサンティアゴを目指しました。

二人は巡礼を終え再びサントドミンゴに戻ってきました。

そこにはまだ絞首刑になったままの息子が刑場に吊り下がっていたのです。

息子に近寄った両親は彼が息をしていることに驚きました。そして役人に息子を刑場から降ろすように頼んだのです。

しかし役人は嘲笑し食卓の料理を指さし「調理された鶏が唄わないように、お前たちの息子が生きている訳がない」と言ったのです。

ところが目の前の調理された鶏が生き返り鳴き声を上げたのです。それに驚き役人と両親は息子を絞首刑台から降ろしたのです。

そして息子はこう言ったのです「ずっとサントドミンゴ様が僕を守ってくれていました」。この奇跡を伝えるべく大聖堂には生きた鶏が飼われているのです。

私たちの宿泊はいつものアルベルゲではなくパラドール。

パラドールとは古城や修道院など歴史的建造物を宿泊施設にしていることをいいます。サントドミンゴには4つ星と3つ星の2つのパラドールがありますが、私たちは4星のパラドール デ サントドミンゴ デ ラ カルサダに宿泊しました。

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ここもサントドミンゴが巡礼者の救援施設敏として作った歴史的建造物です。重厚で歴史のある建物は威厳があり、かつ施設は新しくリノベーションされていて快適です。

バスタブもあり久しぶりにゆっくりと湯船に入ることができました。

レストランも美味しく、量も多いのですがちゃんと適量のアドバイスもしてくれて素晴らしい時を過ごすことができました。

行程

       アソフラ       06時55分

09時00分 ゴルフクラブ  10時15分

12時30分 サント・ドミンゴ・デ・カルサダ

 

12日目 「生まれた場所なのに・・・」サントドミンゴ デ ラ カルサダからビジャマヨール デ リオ

12日目(令和元年9月1日)

サントドミンゴ デ ラ カルサダからビジャマヨール デ リオ 18km

折角のパラドールなので早朝に出るのはもったいなく、7時半から朝食を頂いてから8時過ぎに出発。

スペイン遺跡のホテル・パラドールからライブ配信

 

パラドールでの昨夜の夕食と朝食の食べすぎで身体が重く感じます。一昨日まで食べすぎを抑えて2日間ほど夕食を抜くか軽くしていたのに元の木阿弥にかえってしまいました。

荷物はジャコ様に預けたので快調に歩けます。しかも気温は20度を下回っており半袖では肌寒いほど。長袖を着てちょうどいい気温です。曇っているので温度もあがらず、直射日光もないので歩きやすくどんどん距離を稼いでいきます。

この区間は数キロ間隔で村があるので精神的に安心して歩けます。

いくつか村を通り過ぎてビロリアデリオハという村に到着しました。

おそらくこの一帯のどこかがサントドミンゴの生まれた村のはずです。

この町にはいると今までの町とは違い彼の像があったりするので町の人に尋ねてみると、やはり彼の生まれた村とのこと。

家はどこかと尋ねると指さして「それだよ」といって肩をすくめました。

崩壊しています。

もちろん約1000年近く前のことなどで当時の家が残っていなくても不思議ではありません。

だけどこの崩壊な何ということ。するとそのおじさんが「この村はサントドミンゴの村なんだ、なのにメインの道がここを通らずに向こうにいっちゃったよ。だから署名運動をしてるので書いてくれ」みたいなことを言われました。

そういえば他の村の横には国道が通っておりその両側に村があり、カミーノ道も通っているいう町づくりでした。

教会の中に連れていかれ、おばさんが待ち受けていて、そこで署名、ご丁寧にパスポート番号も記載してくれといいます。

教会を見回すとなにやら大きな石の盃のようなものが展示されています。

何か尋ねると約1000年前のバプテスマをする際に使っていたものだとのこと。

サントドミンゴもこれでバプテスマしたの?と聞くと「そのとおり」と自慢げに答えます。「1000年よ1000年」としつこく言われ、なんのことかと垂れ幕を見るとどうやら今年はサントドミンゴの生誕1000年なのだそうです。

だからこの村についたときに祭典のようなにぎやかさで、装束を着た人達がいたわけが解りました。垂れ幕がさがっている公民館みたいなところに行くとサントドミンゴの生涯のパンフレットや展示があるのかと思い中に入ると、なんと酒盛り状態。生誕1000年なんでしょ!! 

国道があっちに行っちゃった、けしからんとか言いながら生家は崩壊、生誕1000年のイベント?は村の飲み会。ドミンゴさんの偉業を鑑みるとなんか残念!! 

しかしよくよく思うとサントドミンゴ デ ラ カルサダはリオハ県、この村はブルゴス県と行政区が違うのです。もしかしたら行政からも支援がないのかもしれません。小さい村なので資金もなく、いいところは大きなサントドミンゴ デ ラ カルサダに持っていかれてるのが実情か・・・

なんともわびしい気持ちで村をあとにして宿泊地のビジャマイヨール デル リオへ。

しかし、ここもアルベルゲとレストランが1件づつの小さな村。WIFIの設備が村にないのかレストランもアルベルゲも使えない・・・これまた寂しい。今日はアナログにもどって早寝をしよう。

行程

     サントドミンゴ デ カルサダ 08時40分

09時50分 グラニョン          10時20分

11時10分 レダシラ デル カミーノ  

11時40分 カスティ デ ラゴス

12時03分 ヴィオリア デ リオハ    12時29分

13時15分 ヴィジャマヨール デ リオ

 

13日目「中世の巡礼者も使ったアルベルゲ」ビジャマヨール デル リオからビジャフランカ モンテス デ オカ

13日目(令和元年9月2日)

ビジャマヨール デル リオからビジャフランカ モンテス デ オカ 17km

カミーノ巡礼13日目ライブ配信

 

今日歩くのは17km。非常に短い距離です。というのも明日はオカから文字通り丘を登り、次の町まで12km何もないところを行くのです。

30km近くを今日歩くのは苦しいので、短いですが17kmのところで打ち止めすることにしました。

というものの朝6時20分にでたのでオカに着いたのは11時。お昼前までに着いちゃいました。

今日のアルベルゲは2年前にカッコいい外見だなあと思っていたところ。ホテルに併設されているアルベルゲです。

中身はもうホテルというか歴史的建造物。というのもここは中世から巡礼者の宿泊施設として使われていた建物なのです。

SAN ANTON ABADというホテル&レストラン&アルベルゲ。

エントリーすると気分は中世です。

アルベルゲの部屋はいたって普通なのですが、カフェはアーチ状の柱や壁に近隣でとれる鹿のはく製が飾られています。

いやおうなく気分は盛り上がります。

ここでは毎日夕方にヨガも実施されています。

このカフェでランチをとり、歩いているときに気になっていた場所に行くことに。

それはトサントスという村を通り過ぎたときに、はるか向こうの山肌に見えた教会です。

たぶん洞窟の教会!! 先日のナヘラの洞窟のマリアの印象がよかったので是非足を延ばしてみたいと歩きながら話していたのです。

ホテルのレセプションでタクシーを呼んでもらい、いざ山肌の教会へ。

名前はエルミタ デ ラ ヴァージン デ ラ ペーニャ。 ここもまたマリアのようです。

タクシーで5分ほどで到着。歩いたらあんなにかかったのに・・・

崖の下までつけてもらい、そこから坂道をのっぼていきます。

2~3分もしないうちに見えてきましたが、門が閉まっている様子。

中には入れない!! 道中でも閉まっている教会も多く、写真だけとり引き返すことに。

だけど高台にあるだけあって景色は素晴らしい・・・

そして、崖をみると白い線がところどころあります。

もしかしてこれはクリスタル?

道にも白い破片が落ちています。

クリスタルかどうかは定かではありませんが、ここの教会は800年前にラエルミタという女性がこの崖の洞窟に住み巡礼者に奉仕をしていたそうです。

そこにチャペルが建てられ、ラエルミタとマリアの感謝する祭典が年に1度おこなわれるそうです。

中を拝見することはできませんでしたが、聖地といっていい場所だと思いました。

荒々しい崖にもかかわらず、そこには優しい雰囲気が漂っていました。

崖をおりて枯れかけていますが、ひまわりの中で1枚。

アルベルゲに戻り、レストランで夕食をして今日も無事に終了。

 

行程

     ヴィジャフランカ デル リオ 06時20分

07時30分 ベロラド

08時30分 トサントス

09時00分 ビジャムビスティア      09時50分

10時15分 エスピノサ デル カミーノ  

11時00分 ヴィジャフランカ モンテス デ オカ 

 

14日目「人類の進化、ヨーロッパ最古の人骨がみつかった世界文化遺産アタプエルカ」ビジャフランカ モンテス デ オカからアヘス

14日目(令和元年9月3日)

ビジャフランカ モンテス デ オカからアヘス 16.5km

カミーノ巡礼14日目 オカから丘を越えて ライブ配信配信

 

今日も歩く距離は短いものの朝早くに出発。だけど気温は7度とかなり寒い。

ビジャフランカ モンテス デ オカからは文字通り丘を登っていきます。

朝早く、気温も低かったので楽に進むことが出来ます。

古代は、この丘は動物がでたり盗賊もいたのでしょう、越えるのが困難であった場所だったそうです。

一度登ってからまた下り、再び登っていきます。

2回目の丘を登ってからは長らく平らな道が続きます。

途中でオアシスという名の移動カフェが出るのですが、まだ早朝だったのでまだ車も来ていませんでした。

ここで小休憩。

丘から降りていくとサンファン デ オルテガに到着します。

この町はオルテガという人が作った修道院があります。

オルテガは前述のサントドミンゴがこの付近の巡礼路の整備や橋、ホスピタルを創るのを手伝った人なのです。

彼は巡礼者がオカから難関の丘を越えてたどりついたこの地に修道院を創り巡礼者の保護に努めたのです。

彼の名前を冠してこの町の名前はサンファンデオルテガとなったのです。

彼の遺骸は修道院に葬られました。

彼の功績を称えて、その後さまざまな人が修道院に手を加えていきましたが、

その過程でオルテガの棺を移そうするたびにアクシデントが起きるので、そのまま安置されています。

オルテガを出発して次の町のアヘスへ。

アヘスには数件のアルベルがありますが、とりわけお勧めのなのがこのパン屋さん。

可愛くて美味しいお店です。

前述のオルテガは修道院がアルベルゲになっているのですが、あえてアヘスまできたのは

アタプエルタの遺跡へ足を延ばそうとおもったからです。

ちなみにアタプエルタはアヘスの次の町で、ここにもアルベルゲがあります。

アタプエルカの遺跡とはヨーロッパ最古の人骨が見つかったところなのです。

鉄道敷設の作業をしている過程で人骨が見つかりました。

驚くべきはそう広くない範囲の中になんと40万年前から120万年前の遺跡が出ているのです。

そして今なお発掘は行われています。

アヘスからは夕方5時に送迎バスが来てアタプエルカの町はずれにあるセンターに行きます。

そこから遺跡ガイドとともにバスに乗り15分ほど走った遺跡に行くことになります。

ツアー約1時間くらいです。アタプエルカの町からも送迎バスが出ていますので(アヘスからともに要予約)

センターからは遺跡ガイドとともに行かないと遺跡に入場できないと思われます。

ここでは人類の進化が狭い範囲で出土した非常に珍しい場所なのです。

食人をしていた痕跡や動物をいかに捕獲していたかなどの説明を聞くことができます。

巡礼をしながら、はるか先史の古代に目を転じるのも一興です。

 

行程                                                  

ビジャフランカ モンテス デ オカ 06時20分

09時10分 サンファン デ オルテガ 10時20分

11時19分 アヘス

 

15日目「大きな街に入る道は長くはつらい」アヘスからブルゴス

15日目(令和元年9月4日)

アヘスからブルゴス 24.1km

カミーノ巡礼15日目いよいよブルゴスへ。

 

今日はいよいよブルゴスへ。やはり早めにアヘスを出発。隣町のアタプエルタはまだ真っ暗。

アタプエルタは丘をのぼるとちょうど夜明け

 

丘の上には十字架が立っています。

この丘から遠くに見えるのがブルゴスです。

丘をくだると20~30分あるくとカルデニューラ リオピコの村が見えてきます。

この町のカフェで朝食

次の村オルバネハ リオピコの教会に入りました。

小さい教会に何気なく入ったのですが、ここのマリア様が美しい。

教会の中でしばし休憩をしていざブルゴスへ。

ブルゴスは大きな街です。経験上大きな街に入る時と、出るときが辛いのです。

山道や森の中の道を歩いていると、無機質なコンクリートの道や車道に近い歩道が苦痛になってくるのです。

なかでもブルゴスの街にはいる道は長く一本道なのです。

空港と工場、倉庫地帯のに左右に連なる大きな道路沿いを歩いていきます。

やっとブルゴスの街のはずれらしきところまで来たところにマックやカフェがあり、そこで一休み。

大きなホタテ貝が描かれたビルがあり、ここをすぎるといよいよブルゴスの市街地に近くなります。

やがてビルの向こうに尖がった塔が見え隠れしはじめたらカセドラルは間もなくです。

今日の宿泊はアルベルゲではなくホステル。明日の朝はゆくりしたいのでアルベルゲではなくホステルにしました。

というのもアルベルゲでは必ず8時までにチェックアウトしなければならないからです。

洗濯やシャワーを浴びて5時くらいに大聖堂にいってみると、すでに閉館。

かわりにチューチュートレインに乗って市内観光をしました。

トレインは大聖堂前から出発して40分ほどで街の主要部分を一周します。

なんとなく街の様子がわかるでお勧めです。

明日はブルゴス大聖堂を見て近郊の街レルマに行きます

 

行程

アヘス 6時20分

06時52分 アタプエルタ

08時44分 カデニューラ リオピコ 9時20分

09時50分 オルバネハ リオピコ 10時00分  

14時05分ブルゴス

 

16日目「ブルゴス大聖堂とグレゴリオ聖歌」パラドール レルマ

16日目(令和元年9月5日)

今日は休養日。

午前中は世界遺産のブルゴス大聖堂へ。

ブルゴス大聖堂前からライブ配信

 

ここの大聖堂は美しく壮大。しかもスペイン レコンキスタの英雄エル・シド夫妻のお墓もあります。

大聖堂の中は壮大でかつ美しくて圧倒されます。

細かい彫刻やしつらえが床から天井までされていてため息が出ます。

先人の偉大さと信仰にかける情熱とパワー。そしてカソリックの持っている異常な力と資産。

300年以上にわたって建築されてできあがった大この聖堂はスペインでも特異の存在です。

尖塔がいくつもそびえる様式はスペインでは珍しく、フランスからの影響のようです。この尖塔はドイツ人親子の職人によっシドて作り上げられたそうです。

これはエル・シド夫妻の墓

大聖堂の中央部分に位置します。この頭上には光を取り入れる部分があり、透かし細工のように見えます。

天からエル・シド夫妻にむけて光が降り注いでいるかのようです。

まるでエル・シドのレコンキスタの活躍をいつも称えているかのようです。

ここでは紹介しきれないくらいの見どころがあるブルゴス大聖堂です。

そのあと私たちはタクシーに乗り一路レルマとシロスへ。

はじめシロスにある修道院に行ったのですが閉まっていたのでレルマへ。

ブルゴスからレルマは車で約30分から40分。

今夜の宿はパラドール レルマ ブルゴスです。

サントドミンゴ デ カルサダのパラドールに続いての2回目のパラドール宿泊です。

ひとまずチェックインして

ロビーのカフェ

フロントで修道院の時間を確認してタクシーを呼んでもらって再びシロスへ。

シロス修道院はグレゴリオ聖歌を有名にした修道院なのです。

時間になると一人づつ修道士が姿を現します。深々とお辞儀をして自分の席についていきます。

礼拝に来ている人にお礼をしているのか、または主に対してのお辞儀なのかわかりませんが、

西欧であんなに深いお辞儀を見るのは初めてでした。

聖歌は低く響くように聞こえてきます。

音のさざ波が伝わってくるかのようなサウンド。

癒されます。

曲の合間に、また深々とお辞儀をすることもあります。

引き込まれるような環境。

ずっと居たかったのですが、夕食の予約をしていたので泣く泣く席を立ちパラドールへ戻りました。

ちなみにレルマとシロスは車で片道25分(往復のタクシー代金は45ユーロ 1時間の待ち時間料金含む)です。

パラドール レルマでの夕食はお勧めのメヌー。

丸いアーチ状の天井のレストラン

レノマに行けばラムを食べろとブルゴスで出会った人も言っていたとおり、メヌーにはラム肉が入っていました。

サラダやスープ、4種類のソーセージが出てきて、どれも美味しくすでに満足感。

そこに

この2皿のラム肉が私たち4人分

大きさを見て仰天。骨がついているものの、一皿を二人で食べきれる量じゃありません。

恐る恐る手を伸ばし、口にしてみると

「美味しい~~~~~!!!!!!」

ラム肉の臭いはせず、柔らかさは口に入れれば溶けてしまうかのよう。

これは美味しいと叫びつつ食べるのですが、さすがにノックアウト。

4人で2人前で十分と思われます。注文する場合は量に気を付けてください。

満腹になり部屋へ。

久ぶりにバスタブにお湯をはってゆっくりバスタイム。

やっぱりパラドールは素晴らしい。

17日目

レルマからライブ配信

 

18日目「再会 夢が現実になった人」

カミーノ巡礼18日目 ブルゴスを出発 たまごちゃん合流

 

19日目「パラレルワールドへ」

カミーノ巡礼19日目パラレルワールドゾーンへ

 

20日目「幸運の運河」カストロへリスからポプラシオンデカンポス

20日目(令和元年9月9日)

カストロへリスからポプラシオンデカンポス 27km

カミーノ巡礼20日目 全然ダイエットになりません!

今日は27KM歩くので早起きして6時20分に出発。

まだ暗いうちにモンステラレスの山に登ります。

ここは山というよりもテーブルマウンテンといった形状で、上はずっと平原が広がっています。

この上で朝日が昇り異常に綺麗な光景を見ることができました。

しかし体感気温は10度を下回っています。

ここ数日間、9月上旬のメセタにしては気温が低く特に朝方は10度を下回ります。

テーブルマウンテンの平原を終えて急こう配の下り坂。それだけに見晴らしがよく遠くにカミーノの一本道が見渡せます。

ひまわりがのこる平原をすぎるとイテロ デ ラ ベガに到着。

二年前にも行ったカフェで朝食。ここは10kmの間なにもないのでみんなが入る流行りのカフェです。

途中、まもなく町というところにサンニコラスという巡礼者のためのチャペルがあります。

そこでスタンプを頂き、ちょっと一息。

ここからさらに8KM歩いて次の街のボアディラ デル カミーノへ。

この町では2年前に入った広い庭のカフェがあり、そこで小休憩。

その際、イタリア人のロベルトにポルラシオンデカンポスに美味しいアホスープの夕食が出るホステルがあるぞと教えてもらい、そこに泊ったのです。

今回もその夕食を食べるべく今日の宿はポルラシオンデカンポスにしたのです。

カフェを出てフロミスタへ。

カスティージャ運河沿いの道を歩き6km弱歩くとフロミスタに着きます。

運河沿いを歩いだすと一隻のボートが停まっていて、船員が乗らないかと声をかけてきます。

よくよく聞いてみるとフロミスタに行く船で観光客らしき人達が乗っています。

船体にカミーノのマークもついていて、巡礼者も乗れるよといわれて乗船することに。

運賃は一般人5ユーロのところ巡礼者は2ユーロと格安。

船の速度はジョギングのペースなので罪悪感も薄れて快適な船旅。

道を歩く巡礼者達に「ブエンカミーノ」と手を振ると、お前たち船に乗ってるの!!」みたいな反応で面白い。

停泊していた時間は僅かだったようで、まさに神様のお恵みのようなものだった。

約6キロ分を節約できてフロミスタに到着。

あと3.6キロ歩けば目的地に到着だ。

フロミスタの教会は独特な丸い形状をしている。残念ながら中には入れなかったが、前のパン屋さんで食べた玉ねぎのピクルスが絶品だった。

1時間足らずでカンポスのホステルに到着。

ホステルのおじさんと、おばさんに「2年前にもきて、夕食が美味しかったからまた来たよ」と告げたら

「あんたたち覚えてるよ」と言ってハグとキスをしてきてくれた。

こんなときにまたカミーノにきて良かったと思う瞬間だ

ウエルカムドリンクでサングリアをもらい、コーヒーを頼んだらパンの上にスモークされたハム(セシーナ)をのせたおやつも頂いた。

このセシーナはレオンの特産でスモークされた牛の生ハムで凄く美味しいのです。

たぶんセシーナは2回目に来たからくれたのだろうか。

夕食はおばさんの手作りのアホスープ(にんにくのスープ)とエビと貝と鶏肉の入った特大パエリア。

私たち5人とイギリス人のアレックスさんと6人で楽しく会話をしながらの夕食でした。

やっぱりスペインは美味しい!!

行程

カストロへリス 6時20分

07時30分 丘の上 小休憩    07時40分

09時26分 イテロ デ ラ ベガ  カフェにて朝食 10時10分

11時00分 サンニコラス チャペル 11時19分

12時00分 ボアディラ デル カミーノ  ガーデンカフェで休憩12時55分  

13時20分 JUAN DE HOMAR乗船 13時55分下船

14時00分 フロミスタ  小休憩 14時40分

15時30分 ポルラシオンデカンポス

 

 

21日目「牛肉が美味しい」ポプラシオン デ カンポスからカリオン デ ロス コンデス

21日目(令和元年9月10日)

ポプラシオン デ カンポスからカリオン デ ロス コンデス 16km

カミーノ巡礼21日目 美味しかったアホスープ

ホステルで朝食を食べ、おじさんとおばさんに又来るねと挨拶をして出発。

今日は16kmと短いのでジャコ様は使わず自分でバッグを背負って歩きます(当たり前か!)

そこに昨日のアレックスもいて再び挨拶。このカフェは庭が広くて鶏やあひる、ガチョウが走り回っている。

奥にはネイティブアメリカンのティピもあって道沿いからも目立つのでわかりやすい。

しばらくして歩き出し1時間くらいで次の街ヴィジャカザール デ シルガへ。

ここには聖マリア教会があり、巡礼者価格1ユーロで入場できる。

バラの組み合わせのような施しの窓から差し込む太陽の光が差し込み対壁を黄金に照らすのが美しい。

小さい街なのに結構大きい教会で、歴史は古くサンティアゴの騎士(テンプル騎士団など)に遡る。

教会でゆっくりしてあと6km弱、まもなく今日の目的地カリオン デ ロス コンデスだ。

私たちの泊るアルベルゲはEspiritu Santo 二年前も泊ったアルベルゲだ。

すべて1段のベッドなのが嬉しい、教会が運営しているのでアルベルゲの部屋と部屋の間に小さいチャペルもある

庭にあるマリア像もいい感じで私たちを見守ってくれている。

洗濯を終えてランチへ。

お店は2年前に行ったお店。その時、私たちはメヌーを食べていたのだが、隣のご夫婦が食べていたステーキが美味しいそうなので今日もやってきた。

Tボーンステーキとサラダとアホスープを注文。

まず出てきたアホスープが美味しい、いままでで最高のアホスープ。

サラダも美味しくてドレッシングがいい感じ。

そしてTボーンステーキがどーーーーん。

衝撃の大きさ

そして美味しい!!

食後のコーヒーはイタリア人ロベルトのお勧めエスパーニャでエスプレッソ。

今日も美味しく終わってきました。

 

行程

ポルラシオン デ カンポス 8時00分

08時55分 レベンガ デ カンポス   

09時30分 ビジャメンテロ デ カンポス  カフェにて朝食 10時15分

11時30分 ビジャカザール デ シルガ 11時50分

13時10分 カリオン デ ロス コンデス

 

 

22日目「メセタは遠く1本道」カリオンからレディゴス

22日目(令和元年9月11日)

カリオン デ ロス コンデスからレディゴス 23.4km

カリオンのアルベルゲを6時半に出発したものの、すぐ近くの昨夜のレストランに引き込まれるように入って朝食。

なんだかんだで1時間くらいくつろいでしまう。

この町から次の街までは17.2キロ何もない平原の道が続くので朝食を食べて出るのが得策だと皆で言い聞かせて

1時間もいることになった。

(結局昨夜に買った果物や軽食は道中で食べることはなかった(笑))

やはりメセタと呼ばれるスペイン北部中央の平原は広い。

ここはスペインのフライパンと言われるくらいに暑くなるところだが、今回私たちが歩いている間は気温が低く肌寒い。

ブルゴス以遠、最低気温7度から9度、最高気温も22~24度といったぐあい。

2年前は暑くて倒れそうだったので、大きな違いだ。

思い返せば、2年前はこの道で倒れそうなおじいさん巡礼者を助けたほどだった。

 

行程

カリオン デ ロス コンデス 6時30分

6時30分この町のカフェ ラコルテで朝食 07時30分

09時12分 ベンチで小休憩 09時25分

11時15分 カルザルディラ テ ラ クエーサ  tendaでランチ 12時55分

14時10分 レディゴス

 

23日目「半分到達記念牛ステーキ」レディゴスからサアグン

23日目(令和元年9月12日)

レディゴスからサアグン17.2km

カミーノ巡礼23日目レデイゴス出発ライブ配信

レディゴス出発がカフェで朝食を食べて、なおかつ「しんごちゃんねる」のライブ配信もその時にしたので大幅に遅れて8時半。

すっかり明るくなってからの歩き出しとなりました。

モラティノスは8日目の寄ったトリスデルリオのカフェで出会ったおばさんが働いているアルベルゲに寄ること、そして2年前に衝撃の事件が起きた町でもあります(2年前のブログ「壊滅的な出来事は最高のスパイスだ!!」) 

 

いよいよモラティノスに到着。

まずは2年前の事件のカフェ(アルベルゲ)の様子をみます。

ところが当の縦バーコードのおじさんは居ないよう。代わりにツルッパゲの若めの男性がいます。

あれ? 髪の毛が全部なくなったのか? だけど若くなっている・・・息子か? 遺伝か?

疑惑を残しつつ、カフェにははいらず約束のアルベルゲへ。

外出をしているらしく誰も居ない。庭にははいれたので座って休んでいるとオーナー夫婦が帰ってきた。

私たちがトリスデルリオであったおばさんはオーナーではなく働いている方だったようだ。それからしばらくして彼女は帰って来て、感動の再開となった。

彼女とオーナーを交えて少しり話してなんだか凄く仲が良くなり

私が着ていた白衣(八海山の修業着)を着物と勘違いしたのか興味深げに見てくる。

もっと手を広げて見せてなど興味津々なので、オーナー夫人にプレゼントするよと思わず言っちゃいました。

「いいの? どうしてくれるの?」というので

「なんかそう思ったから」というと大喜び

「私マッサージ、指圧をやってるのよ」と

やっぱり最適な人にプレゼントできたと思ったのです。これは八海山尊神社で火渡りをした時の白衣。

なのでかなりパワフルな経験を経ているはず。

「この服はパワフルだから、指圧するときに着たら、エネルギーがアップするよ」と言って彼女に着せました。

またカミーノを歩くときは、このアルベルゲに泊まるねと言ってサアグンに向けて出発。

途中でロンセスバージェースからサンティアゴまでの半分の地点の到達。

ここにはバージン デル プエンテという場所で小さな教会もあります。

その教会に行くと2年前にいたおばんさんがいるではありませんか。

たまごちゃんが2年前のクレデンシャルを見せると

「あっつ これ 私の字だ!!」とおばさん。

「また来てくれたのね!!!」とハグ。

おばさんは5年間ここの教会にいて、今週の日曜日が最後になると言ってたのを聞いてまた感動。

数日前のカフェのエマといい、このおばさんといい奇跡的なタイミングで再会が叶っている。

カミーノを再度歩いていて、再会ほど嬉しいものはない。

また次回歩くと、その感動が3倍になるとしたら、今からワクワクする。

この教会の前にいた自転車で巡礼しているおじさんが私とそっくりなので2ショット

ほどなくサアグンに到着。

2年前の記憶をもとに街に出てレストランに行く。

美味しいステーキを食べたレストラン ルイスだ。

再びの入店、メニューが変わっているような気がしたが、店員にたずねてアラカルトのメニューを注文。

6人で3人前を注文すると

ワ~

これはすごい!!!

ワ~またくる

え~またきた!!!

しかも美味い!!!!!!!!!!!

昨年も書いたが

サアグン最高!!

ちなみにレストランのあと薬局で体重をはかったところ66.1kg

歩き始めて3日目のパンプローナの薬局で測った時は67.5㎏

食べてばっかりで全然ダイエットできていないと思ったけど1.4㎏痩せていた!!!

もうちょっとシェイプしたい感じ。あと400kmでどれくらいになるか楽しみです。

 

行程

     レディゴス 08時30分

09時20分 テラディジョス デ ロス テンプラリロス

10時00分 モラティノス 

      アルベルゲ サン ブルノでカフェ小休憩 11時10分出発

12時50        バージン デル プエンテ教会  13時20分

13時50分 サアグン

 

24日目サアグンからレリエゴス

24日目(令和元年9月13日)

サアグンからレリエゴス30.8km

カミーノ巡礼24日目 今日は長めの30.2キロ ライブ配信

今日はサアグンからエルブルゴラネーロまでの17.2kmの予定だったのですが明後日の天気予報があまりよくなかったので、サアグンからレオンまで3日かけていく予定を2日でいくことにしました。

よって今日はサアグンからレリエゴスまでの30.8km歩くことにしました。

エルブルゴラネロまでは数キロおきに村があり比較的楽に歩くことができます。

途中のベラシアネス デル リアル カミーノのカフェで小休憩

ここでパンコントマテを見つけました。

トマトペーストが塗られたトースト。シンプルだけどこれが美味しい!!!

いままではあまり見かけなかったのですが、レオンに近くなると現れてきました。

カミーノ巡礼をしていて地域が変わることで食べ物や名産が変化していくのが楽しみのひとつです。

次の町エル ブルゴ ラ ネロでお勧めの店がここ。

スペイン人がいぇっているお店なのですが、日本語、ハングル語でもメニューが書かれています。

なかでも食べてくなるのが辛ラーメン

スープが少ないので辛めですが、久々のオリエンタルフードでほっこりします。


ここから次の町までは12.6キロの長丁場。

まさにメセタという風景が続きます

この日は久しぶりの気温があがり30度近くまでなり、ちょっとはメセタっぽくなってきました。

2年前はずっと30度を超えていたので、暑いのはいやだけど”これぞメセタ”を一緒に行ってくれた方々に感じてもらえたのは良かったかもしれません。というのも出発前にメセタが暑いと言い続けていたので、このままではメセタは涼しいと思われる懸念があったからです(笑)

やっとレリエゴスに到着。

無事30キロオーバーを歩ききりました。

行程

サアグン 07時30分

09時37分 ベラシアナス デル リアル カミーノ カフェで休憩 10時35分

11時55分 エル ブルゴ ラネロ   ランチ 13時10分

15時45分 レリエゴス

 

25日目 レリエゴスからレオン

25日目(令和元年9月14日)

レリエゴスからレオン 26km

カミーノ巡礼25日目いよいよレオンへ

今日もメセタの大地を歩きます。

といいてもメセタも今日で終わり、今年のメセタは涼しくてよかった。。。これが実感です。

今年のメセタは1日目の最低気温が8度~10度、最高が25度くらい(昨日と今日は28度くらいでした)と非常に歩きやかったです。

しかもなるべく朝早く出て歩き出したのも良かったと思います。

昼食はマンシージャ デ ラス ムラスのアルベルゲ件レストランのEl Jaroin del Camino

ここで美味しい朝食のメニューを発見

前出のトマトペーストを塗ったパンの上に生ハムを乗せたものでした

美味しいのなんのってものじゃありません

それもそのはず、よくよくお店の奥を見てみたら・・・お肉屋さんじゃないの!?

ここにはアルベルゲもあるので、次回来たときはここに泊ろうと決意しました。

カフェを出て1時間半くらい。

ウッドデッキのような歩道を歩き橋を渡ります。短いですがちょっとイイ感じのところです。

ここからは残り13キロほどでレオンに入ります

レオンには2泊するのでアルベルゲではなくホテルに連泊。

大聖堂に近いCAMAROTE HOTEL

ここは新しいホテルで大聖堂に歩いて2分、レストランも美味しくてかなりお勧めです。

今日 明日とホテルでゆっくり休みます。

 

行程

     レリエゴス 07時10分

08時28分 マンシージャ デ ラス ムラス 09時16分

10時25分 ビジャモラス デ マンシージャ

10時55分 プエンテ ヴィラレンテ

11時50分 アルカへジャ 12時00分

14時00分 レオン

26日目 レオン滞在

26日目(令和元年9月15日)

レオンのホテルcamaroteからライブ配信

レオンはカミーノ上では有数の大きな都市です。

ちなみにカミーノにある大きな都市の人口を調べてみました

東から

パンプローナ  人口19万7千

ログローニョ  人口15万

ブルゴス  人口17万7千

レオン  人口13万5千

ポンフェダーラ 人口6万7千

サンティゴ デ コンポステラ 人口9万4千

ちなみに比較的大きな街だと思っていた

サントドミンゴ デラ カルサダ 人口6千

アストルガー 人口1万2千

サリア 人口1万3千

でした。ちなみにマドリッドは320万、バルセロナは160万で断トツ。

3番目の都市がバレンシアで80万です(Wikipediaより)

こうしてみるとこじんまりした街々を通り、本当に田舎道の村々の間を歩いてきているわけです。

レオンといえばやはりステンドグラスが美しいレオン大聖堂です。

13世紀の創られたこの大聖堂は石の船と称されたという。たしかにメセタの大平原をくるとレオンの街並みが見えてきたときに石の船のように見えても不思議ではないと思います。

当時は高い建物もないでしょうし、何もないメセタの平原で大聖堂が見えてきた時の安堵感は相当なものだったと思います。

この大聖堂の見ものはステンドグラスと言っていいでしょう、大聖堂に入ってすぐに側面の石段に腰を下ろすと壮大なステンドグラスを見渡すことが出来ます。

 

 

 

光が差し込んだ時に美しさは格別です

中に入れば、うっとりとして佇みつづけるといった大聖堂です。

ブルゴスの大聖堂にならび一見に値する大聖堂です。

 

27日目「迷い道くねくね」レオンからビジャダンゴス デル パラモ

27日目(令和元年9月16日)

レオンからダンゴス デル  パラモ 22km

カミーノ巡礼27日目 レオンを出発

レオンを出発して巡礼も中盤の後半戦にはいります。

ここからはアストルガ―を経て山を越えてポンフェダーラ。そこからもう一つ山を越えてサリア。

サリアからはラスト118kmとなります。

レオン町からは車道沿いのアスファルトの道を延々と歩きます。

1時間20分くらい歩いてラ バージン デル カミーノに到着。

カフェで朝食を食べてから

この町に2年前に「おばさんのセレクトショップ」と勝手に名付けた食品と雑貨のお店があり、そこに寄ります。

おばさんの代わりに綺麗なおねさんがお店にいらっしゃいました。

2年前にも来たんだよというと嬉しそうに話しかけてきて

彼女はfecebookに出したいから一緒に写真を撮っていいかしら。と言ってきたのでもちろんOKと言ってパチリ

ここはクッキーやお菓子、肉類からハーブティー、アロマオイル、オーガニックぽいシャンプーやクリーム各種あるちょっとかわったお店なんです。

お店を出て数軒先の教会へ

モダンなテイストの教会は美しい祭壇が印象的でした

教会は街の端にあり、ここを出ると泉があります。

泉の巡礼者のオブジェに見送られて3キロばかりで次の街へ

その間に電線にぶら下がっている靴があります。2年前よりも増えている気がするのですが定かではありません。

こうした光景はいくつかあるのですが、一体なぜ靴を電線になげるかは不明です。

靴擦れがひどくなりすぎて履けなくなったのでしょうか。実際に靴はバックパックに括り付けてサンダルで歩いている人もいます。そういう人たちはほとんどが踵や足首にテーピングされていて痛々しく歩いています。そんな人がやけになって靴を放り投げたのは十分に考えられることです。

あとは靴を2足持ってきていて重たくなって棄てちゃったというところでしょうか。

僕は2年前もそうだったのですが地下足袋を履いています。靴擦れやタコなどは一切なしで快調に歩けています。

次の町サン ミゲル デル カミーノで左向きの矢印があり、それに従っていくものの様子がおかしい。

ところどころ矢印があるものの、その先ぱったりと無くなってしまいました。

2年までも歩いた記憶がない道。

どうやら道を間違ってしまったようです。

しかしグーグルマップで位置を確認、そう遠回りでない道を探して無事ビジャダンゴス デル カミーノに到着。

ずっと車道沿いに行けばいいのに、かたわらの町に誘導しようとした矢印にまんまとやられた感じです。

15分ばかり遠回りをしましたが、のんびりとした畑の中の未舗装の道をいけて、これはこれでよかったのかもしれません。

しかし、こういうときスマホが役に立ちます。10年前なら地図を片手に彷徨っていたに違いありません。

公営アルベルゲに到着。

今日も無事に終了

行程

                 レオン 7時18分出発

8時50分 ラ バージン デル カミーノ  カフェ・お店・教会に立ち寄り 10時07分

11時00分バルバデルデ デラ バージン

11時15分 サンミゲル デル カミーノ

13時15分 ビジャダンゴス デル パルモ

 

28日目「もっと滞在したい町」ビジャダンゴス デル パラモからホスピタル デ オリビゴ

28日目(令和元年9月17日)

ビジャダンゴ デル パラモからホスピタル デ オリビゴ11km

カミーノ巡礼28日目

今日は短い距離11キロなのでゆっくり8時すぎに出発。

途中の町サンマルティンデルカミーノで朝食兼1時間以上なんだかしゃべったりして休憩。

11キロしか歩かないので余裕の展開です。

途中でブルゴスを出るときにあった中華系フランス人のおばさんと再会。

たまごちゃんの着ている四国お遍路の白衣に興味を持って、売ってくれないか・・・とリクエスト。

2年前のカミーノ巡礼の際に、琵琶演奏家の黒田月水さんからのプレゼントされた白衣だっただけに譲るのをためらっていたのですが、月水さんもわかってくれるよということで彼女に白衣をプレゼント。

直に着るのかと思ったら丁寧にたたんでバックパックにしまっていました。

途中はロンドン在住でカミーノ巡礼が終われば香港に帰るという比較的若い女性と歩き、いまの香港情勢などについて話しました。こういったことを話せるのもカミーノの良さです、以前はイタリア人が天皇陛下のことについて質問をしてきたこともありました。

目的の町ホスピタルデオリビゴには12時過ぎの到着。

この町にはオリビゴ川が流れていて、そこにかかる橋が印象的な街なのです。

2年前あまりにもい美しく、橋のたもとにホステルがいい感じで立っていたので、そこに泊ることにしたのです。

ホステルはHostal Don Suero de Quiñones。

ホステルから橋をながめると

ここでランチも頂いたのですが、注文はホステルのおじさんのお勧めとホステルの前に出ていた看板の写真を頼みました。

サラダとアスパラ

あさりのスペイン風酒蒸し

エビの塩焼き

 

看板の写真のもの(海鮮の具沢山スープ)

ラム肉

全てが美味しすぎる!!!

2年前は「この町、このホステルいいなあ」と思って通り過ぎただけなのですが、今日は11キロという中途半端な距離だけ歩いて滞在した価値がありました。

昼食後町を散歩、いい感じのアルベルゲがあったので中を覗くと人のよさそうなスタッフが出てきて片言の日本語を話します。日本人の友達が著作のカミーノ写真集を見せてくれたりしてお客さんでもない私たち相手に話がもりあがりました。

来年はピアニストと一緒にカミーノにくるつもりなんだけど、この町でコンサートできますか?と尋ねると、川のそばの芝生のとこなんかでやるのはどうかな、僕がオーガナイズしようか・・・とまで言ってくれます。連絡先を交換して今後はメールでやりとりすることに。

もう一軒のアルベルゲにも顔を出すと、そこもいい感じのところで「中に入って写真を撮っていいってよ、中庭に十字架もあるのよ」といって案内してくれます。

薬局にいけば親切にいろいろと症状をきいて親身になってくれるし、ともかく町の人すべてがいい感じなのです。

この町はヨセフ騎士団が作った町、だから「ホスピタル」とついているのです。

だから町の人


は巡礼者や外からの人、困っている人などに優しいのでしょう。

ホスピタル デ オルビス

ここはまた滞在したくなる町なのです。

 

行程

ビジャダンゴ デル カミーノ 08時10分

09時15分 サンマルティン デル カミーノ  カフェにて休憩 10時43分

12時19分ホスピタルデオリビゴ

 

29日目「もっと滞在したい町」ホスピタル デ オリビゴからアストルガ―

29日目(令和元年9月18日)

ホスピタル デ オリビゴからアストルガ―17km

カミーノ29日目もっといたくなる町オリビゴよりライブ配信

今日の行程は17キロ。そんなに長くないほど良い距離です。

8時にオリビゴの町でライブ配信始めながら歩き始めました。

次の町のビジャス デ オリビゴでニンニクをキャラクターにしているカフェがありました。

ここでは果物のトイレを借りてすぐに出発。

次の町にもとまらずに小高い丘を登っていきます。

途中に十字架とオブジェがある場所をとおり

ここをとおりしばらく行くと植物の様子が変わってくるのにきがつきます。

白樺がでてくるのです。

ちょっと寒々と見えてくるのが不思議です。しかし気温はメセタを歩いていたより遥かに高く、半袖でも歩けるくらいです。

丘の上を歩いていくと、オアシスが出てきます。

ここはデイビット(黄色いTシャツの人)が始めて全てドネイションで運営されています

2年前に地下足袋を見て思い出したのか、私たち訪れたことを覚えていてくれたようで、再会をよろこんでくれました。

多くの人が憩っていて、まさにここはオアシスです。

ここをでてしばらく行くとアストルガーが見えてくる丘に出ます

2年前にここで黒田月水さんが琵琶を演奏した思い出の場所です。

ここからはもう1時間ほどでアストルガ―です。

今回はアストルガ―で2泊の予定。スパ、プールのある4星ホテルCIUDAD DE ASTORGAに宿泊しました

ホテルにチェックインしてアストルガーの町を散策してランチ。

そして2年前には行けなかったチョコレート博物館を訪れました。

ここではチョコレートの歴史、製作工程や生産と製造の世界分布などが実際の工具や写真で説明されています。

チョコレートのラッピングが色々と紹介されていて、昔は王様や貴族の絵を描いて包装していたようです。

その後、俳優や女優なども印刷されていてチャップリンの写真もありました。

野球選手のカードみたいな感覚だと思います。

面白かったのは、子供のアルファベットの勉強をかねている包装。

JのところにはJAPONESAとあり日本人女性の絵が描かれています

KのところではKAKEMONOと書かれて着物が絵が描かれています。

KIMONOがKAKEMONOと間違って伝わったのでしょうか

あとアジアではCで辮髪の中国人、Iでターバンを巻いたインド人が描かれていました。

当時のヨーロッパの人達の様子が伝わってきそうで面白かったです。

明日はガウディ建築の司長館の様子をライブ配信します。

 

行程

       ホスピタル デ オリビゴ 8時20分

09時00分 ビジャス デ オリビゴ

09時28分 サンティバネス デ バルデリグレシア

10時50分 サンオスト デ ラ ベガ

11時53分 アストルガ―

 

30日目 ガウディ建築 アストルガ―の司教館

30日目(令和元年9月19日)

アストルガ―滞在

ガウディの美しさ。アストルガー司教館からライブ配信

今日はアストルガ―でお休みの日。

ガウディの建築である司教館を訪れました。

この司教館は19世紀に火事で焼け落ちてしまいその後、司祭が友人で会ったアントニオ ガウディに建築の依頼がされたもです。

当時ガウディは設計図を描いたのですが、こういった建築はアカデミーの承認が必要で、そこから許可がおりず建築開始に時間がかかりました。

1889年から1913年にかけて建築が完成しました。

ガウディは当時はやったモダニズムを取り入れた建築を試みましたが、司祭が亡くなったため建築にストップがかかってしまいました。結果、ガウディはその後、建築から手を引き、別の建築家が後を引き継ぐことになりました。

当初は屋根に数多くにガラス窓が施される予定だったのですが、それには至らなかったようです。

柱がアーチ状に組み合わさり、万華鏡をみているような錯覚になります。

壁にはステンドグラスが配されていて美しく壁が光で浮かび上がります。

中二階から見た柱

そして、ステンドグラスのなかにこんなものを見つけました

やはり教会は石造り、まさに石工の作品です。だからこんな作為がされていても不思議ではありません。

科学者、建築家といった知識や技術を持った人たちがフリーメイソンを構成していたといわれていますので、

ガウディがフリーメイソンだったとしても不思議ではありません。

その証拠が見れたような気がしました。

いすれにしても、このカミーノの巡礼中にカセドラルや教会、修道院などを見てきていますが、そんなかでも一番印象になった建物でした。

 

31日目「小さな小さなセレクトショップ」アストルガ―からラバナル デル カミーノ

31日目(令和元年9月20日)

アストルガ―からラバナル デル カミーノ 20.7km

カミーノ巡礼31日目アストルガーを出発します

2日間滞在したアストルガーを出発。

振り返ると朝焼けのなかにカセドラルの尖塔が見えます

2年前はここから独りぼっちになったので、なんとなく寂しい印象があった道です。

4人でにぎやかに歩いていて急に一人になったので無言で歩いたことだけ覚えていて

周囲の風景は全く覚えていませんでした。

しかし、ガンソの村にはいり小さなお店の前に来た時に急に記憶が鮮明によみがえりました。

スロープと階段のある店

2年前は何も買わずに立ち去っただけでしたが、今回はお店に入り奥まで覗くことに。

すると可愛いものやいい感じのものが沢山あるではないですか。

小物入れやシャツやパンツ、アクセサリーなどセレクト感があるものばかり。

おまけに食べ物のメニューをみると美味しそうな取りぞろえ。

迷った挙句、初めて見た”トーストにトマトとアボ̚カド”を注文。

大好きなパンコントマテにアボカドが乗っかているという豪華版。

パクっといくと、いい塩加減のトマトペーストにアボカド、パンはサクッとしたバケット。

パン生地はオリーブオイルとトマトテーストの程よい水分でお気に入りのしっとり感。

もう感激!!

なんとこのお店に1時間半も滞在してしまいまいました。

お店を出るとすでに1時半。

太陽は高く上り強烈な日差しの中を1時間あまり歩いて目的地のラバナルデルカミーノに到着。

アルベルゲはNuestra Senora del Pilar。

選んだ理由はズバリ名前。聖母の光の柱という意味のアルベルゲ。泊まるしかないでしょうって感じ。

着いてみると、なんと2年前泊ったアルベルゲでした。

夕食はここのアルベルゲでラーメン&キムチ&ライス。結構おいしい!!!

夜の7時からは教会でグレゴリオ聖歌を拝聴して、今夜も平安に更けていきます。

行程

アストルガ― 07時13分

08時17分 ムリアス デ ラチバルド 09時13分

10時00分 サンタカタリナ デ ソマザ

10時57分 ガンソ 13時25分

14時48分 ラバナル デル カミーノ

32日目「雨の気配 エルアセボへ急げ!着いたらスパの郷褒美」ラバナル デル カミーノからエル アセボ

32日目(令和元年9月21日)

ラバナル デル カミーノからエル アセボ 16.8km

カミーノ巡礼32日目 雨の予感。エルアセボへ急げ

今日は雨の予感。天気予報は11時くらいから夜まで降水確率70%以上。

行程は17キロ弱なので4時間前後でいけるはず。

逆算すると朝7時に出て休憩なしに歩けば11時に着けるということになります。

ともかく7時5分に出発。まだ真っ暗で空の様子はわかりません。

1時間くらいで次の町フォンセバドンに到着。当初の予定ではこの町で朝食を食べる予定でしたが、

空が雲で覆われているので休憩なしで歩くことに。

ここはレンガ造りの家がならぶスキーリゾートのようないでたちの町。

カフェに入りたい衝動を抑えて歩きます。

だんだんと雲が濃くなっていき、標高もあがるので雲の中を歩くようになってきました。

ともかく急がねば。

カミーノの行程のなかでもちょっとした名所になっている鉄の十字架があるイラゴ峠に到着。

ここは昔、巡礼の成就を祈る祭壇があった場所で、その名残で地元の石を持ってきてここに願いを込めて置くという風習が伝わっているところです。

記念写真もそうそうに出発。

しかし、すぐに雨がぽつりぽつりと降り出しました。

ポンチョを着て再び歩き出します

マハリンという巡礼者向けのお店が1軒しかない村を通り、あと目的地まで7キロ。

下り坂を滑らないように気を付けながら、足早に歩きます。

とうとう眼下にエルアセボの町が見えてきました。

なんとか小雨の間に到着できたようです。

私たちが泊まるアルベルゲは町の端にあるアルベルゲ ラ カサ ペリグリーノ。

各国の旗が立っているホテルのような大きな施設です。

そういえば2年前もここに泊りました。

11時に着いたので受付の12時までカフェで待つことに、雨脚が強まっているので少しでも早く着けてよかったと話しているところにジャコ様がご降臨。

赤いジャコ様です。

いつもお世話になっているジャコ様に2礼2拍手1礼。

今日も雨の気配だったのでジャコ様にバックパックを運んでもらって大助かりでした。

ジャコ様神様仏様です。

部屋はコンパクトな8人部屋。

トイレ、シャワーもご覧んのとうりかなり立派です

このアルベルゲにはスパ&マッサージがあるのでチェックインして予約をすることに。

5人分が1時間づつできる余裕があったのですぐさま予約。

スパとマッサージを楽しみました。

雨のために急いできたご褒美を頂けたことになりました。

スチームサウナ、温水のミニプール(お風呂くらいの水温でした)水風呂、

そして写真の左側の木の椅子が実に気持ちがいいのです。

温熱の仕掛けがされていて、温熱の椅子に寝転ぶ感じなのです。

すっかり癒されてそのあとはカフェでゆっくり。

明日はポンフェダーラへ向かいます

行程

ラバナル 07時05分

08時15分 フォンセバドン

08時46分 イラゴ峠

09時18分 マンハリン

11時00 エル アセボ アルベルゲ ラ カサ デル ペルグリーノ到着

 

33日目「気持ちのよい道」エル アセボからポンフェラーダ

33日目(令和元年9月22日)

エル アセボからポンフェラーダ 15.8km

カミーノ巡礼33日目、ホテルのようなアルベルゲからライブ配信

エルアセボからポンフェダーラへ出発。

雨雲が立ち込める中を出発。雲の中を歩く感じですが、雨には降られずに進みます。

道は歩きやすく、涼しいので歩きやすいのです。

綺麗な山並み、少し紅葉しているように見える木々を見ながら快適な山道を下っていくと

リエゴデアンブロスという小さな村に到着。

途中で大きな木をみつけました。

木々の間を縫う道は歩きやすく、あっというまにモリナセカの町に到着。

美しい橋がかかるお洒落なテイストの町です

川沿いのレストランでランチ休憩をして出発。

2年前この町を通ったとき、道沿いでレコードのターンテーブルにバナナなどを載せてディスプレイしているお店がありました。今年はどうかと思て探してみたらやはり健在でした。

斬新なスペインの店先のディスプレイ

 

この町には四国のお遍路と縁があります。

アルベルゲ サンタマリナ(Molinaseca albergue santa Marina)

ここのおじさんはお遍路の普及と交流に貢献した人として遍路名誉大使に任命されています。

お遍路との交流を記念する碑があり

そして、この町には日西交流400周年を記念して香川県の仏師凡海(ぼんかい)さんが生きた木に観音像を掘られました

この生き木(いきき)観音はまるで動き出しそうなリアル感があります。

この緑の芝生に生えるくるみの木は公営アルベルゲ(albergue San Roque)の庭にあります。

実はこの生き木観音のアルベルゲを探している時に不思議なことが起きました。

どこかでここの名前を「Las Medulas」と書かれていた記事を見つけたのです。

そしてLas Medulasを調べてみると、全然違う場所が出てくるではありませんか。

しかしよくよく見てみると、そこに出てくる光景はまるでアメリカ アリゾナのセドナのような風景。

気になって調べてみると今日泊まるポンフェラーダからは車で30分くらいにある世界遺産。

ポンフェラーダでは1日の休養日をとっていたので、その日にLas Medulasに行くことにしたのです。

まさに観音様のお導きといっても過言ではありませんでした。

そうこうしているうちにポンフェラーダに到着。

ここポンフェラーダは我が町といった感覚の場所。

写真はテンプル騎士団の古城。

そうなんです、十字軍テンプル騎士団の創ったお城のある街なのです。

私はマルタ騎士団といい、テンプル騎士団といい、なぜか妙に「騎士団」が気になってしまうのです。

詳しく「しんごちゃんネル」でご紹介していますので見てみてください

 

行程

     エル アセボ  8時43分

9時23分 リエゴ デ アンブロス

10時45分 モリナセカ 13時15分

14時50分 ポンフェラーダ

 

34日目 セドナのような場所ローマ時代の金鉱ラス・メドゥラス

34日目(令和元年9月23日)

今日は1日ポンフェラーダに滞在するので、昨日偶然に見つけたラス・メドゥラスに行くことにしました。

ポンフェラーダからはタクシーで30分ほど。現地での滞在時間の待ち時間(2時間くらい)を含めて100ユーロで走ってもらいました。

ラス・メドゥラスとはローマ時代(1世紀)にローマ人がやってきて砂金の採掘をした場所です。

ここの砂金の採掘の方法が、山に水路を掘り、そこに山頂に作った貯水池から一気に水を流して山を崩落させ、そこの土からふるいにかけて砂金をとるというものでした。

そのため露出した赤い岩が奇妙な形で露出してて圧巻な景色を作り上げています。

ここは世界遺産に指定されてもいます。

詳しくはしんごちゃんネルをご覧になってください

ローマ時代の金鉱ラス・メドゥラス。スペインの世界遺産

35日目「眺めの良い道と天の恵み」ポンフェラーダからビジャフランカ デル ビエルゾ

35日目(令和元年9月34日)

ポンフェラーダからビジャフランカ デル ビエルゾ 22.9km

 

ポンフェラーダのホステルをまだ日の出前に出発。

大きい街ではお約束のように道を見失います。

お散歩おじさんが「カミーノはあっちだよと」スペイン語で教えてくれますが、どうも要領を得ないでいると

分かりやす所まで一緒に来てくれました。

カンポナラヤの手前で教会が開いていたのでちょっと覗くことに。

天井に最後の晩餐。丸みのある天井のアーチの間に書かれていました。

カンポナラヤでは2年前に泊ったアルベルゲのカフェで朝食をかねた小休憩。

この町を過ぎたくらいから、道の感じが良くなってきます。

ワイン畑の間を通るカミーノ。

途中で収穫をしている農家の方々がいらっしゃいます。

ここでみゆきさんがオーラ―と気軽に声をかけると、農夫の方が手招きをしてきます。

期待をしながらも近寄ると、ブドウを一房くださいました。

そこにすかさず、たまごちゃんが近寄るとおじさんが笑顔をうかべてさらにブドウのプレゼント。なんと赤いブドウを4房くらい頂きました。

食べながら歩くと、水分が豊富で喉を潤してくれます。

しばらく行くと緑色のブドウを収穫している農家さんと出会いました。

またオラーと声をかけると、こんどは美香さんに手から溢れんばかりのブドウをくれたのです。

私たちのほかに数組の巡礼者が歩いていたにもかかわらず、私たちだけにプレゼント。

やはり私たち光り輝いてる? あるいは物欲しげに見えるのか・・・

「嬉しいね」「ついてるね」などと話しながら歩いているとまた農家の前。

おじさんとお兄さんと1匹の犬が家の前にいます。

すると犬が近寄ってきて私の地下足袋の上に載って寝込んでしまいました。

じゃがんで犬をみんなで撫でていると、おじさんに呼ばれて近づくと手にいちじくが入った篭をもっていて「持っていきな」というそぶり。

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! いちじく~

 

ぶどうと、いちじくを食べながら歩くとカカベロスの町に到着。

ここがまたいい街なのです

こんなかっこいい肉屋さんがあります。

さらにブドウ畑をあるくと、絵本のような風景

いよいよサンティアゴまであと200,2キロ

なんでちょうど200キロの表示を作らないのか疑問でしかたないのですが、ここはスペイン。

固いことは言わない言わない。

そして目的のビジャフランカ デル ビエルゾに到着したのです。

行程

      ポンフェダーラ 07時15分

09時15分 フエンタス ヌエバス

10時10分 カンポナラヤ 10時30分

11時48分 カカベロス

15時00分 ビジャンフランカ デル ビエルソ

 

36日目「カンタブリア山脈へ」ビジャフランカ デル ビエルゾからベガ デ バルカルセへ

36日目(令和元年9月25日)

ビジャフランカ デル ビエルゾからベガ デ バルカルセ 16.4km

カミーノ巡礼36日目「カンタブリア山脈へ」

今日は16.4キロの短い行程。

カンタブリア山脈への導入部分です。

ゆるやかな道で車道の横の歩道をずっと進んでいきます。

そういう意味では、面白みのない道なのですが、緑が多く日本の山のかなを歩いていると思ってしまいます。

村が小刻みにあるのであまり飽きずに歩くことができるのもいいです。

途中の町でサンティアゴまで178.8キロの表示が出てきました。

「あれ もうそんなにサンティアゴに近づいたのかな」と思うと、すぐ隣にこの碑

そこには190キロとかかれています。

「どっちやねん!!」

これもスペイン的

お昼前に目的地に到着。

12時前についたので、アルベルゲにチェックインできずにランチをすることに。

村に3件あるレストランを訪れますが、まだ早くてランチにありつけずカフェで時間をつぶします。

1時くらいになっても一方アルベルゲは開いているのですが人がいなく、勝手に荷物を置いて隣のカフェでランチを食べてると、アルベルゲにおばさんが出入りしているを見つけて、チェックイン。

なんだかとてもおおらかな村なのです。

チェックインしてから、また隣のカフェに戻ってこのブログを書いたりして

カフェには13時半くらいから20時くらいまで滞在しています。

なんとおおらなか。。。

スペインの田舎は優しいのです。

 

行程

ビジャフランカ デル ビエルソ 7時05分

8時15分 ペレへ 朝食休憩 9時10分

9時36分 トラバデーロ

11時00分 ラ ポルテラ デ バルカルセ

11時21分 アンバスメスタス

11時43分 ベガ デ バルカルセ

 

37日目「オセブレイロを越えてサリアへ」ベガ デ バルカルセからサリア

37日目(令和元年9月26日)

ベガ デ バルカルセからオセブレイロ(徒歩) 12km

オセブレイロからサリア(自転車) 42.5km

カミーノ巡礼37日目難関の峠へ

今日はベガの町から小さなま村々をとおり峠を登っていきます。

ここは急な坂が続きます。ピレネーに続く難関といわれている上り坂です。

ラグナデカスティージャを過ぎたところにカスティージャ・イ・レオン州とガリシア州の州境があります。

ここを過ぎるといよいよサンティアゴコンポステラのあるガリシア州にはいります。

そして、まもなく峠のオセブセイロに到着します。

この峠には数件のレストランとお土産物屋さん、アルベルゲがあります。

ガリシアに入ってきたと感じるのがケルトの文様があしらわれてたペンダントやバッジです。

このあたりには古代にケルト人が沢山居住していた場所です。

伝説の峠の教会からライブ配信

オセブレイロで宿泊する予定でした。

サリアから電車で1時間半くらいのところにオウセンセという温泉街があるのです。

2年前も昨年も行けなかったオウレンセ。

同行の方々に、もしここから自転車でサリアに行ったら2日間日程を短縮することができるので

オウレンセに1泊2日で行くことができるがどうでしょうかと提案してみました。

みんな行ってみようということになり、オウレンセでレンタル自転車をすることに。

これで40キロ先のサリアまで今日中で行けることになります。

峠からの下りなので、基本的に下り坂を自転車で降りていくので楽なのですが、

そこは山の中、ちゃんと登りもあるのです。これが辛い。

自転車で巡礼をしている人たちを多く見かけましたが、自分でやってみるととんでもなく辛いのです。

バックパックは車で送ってもらったので自転車に載せているわけではないので身一つなのですが、

きつい昇り坂は自転車を押して歩くほど辛いのです。

ギリギリまで自転車を漕ごうとするので息も上がり、巡礼中で一番心肺機能を使った1日でした。

なんだかんだでサリアに到着。

明日はオウレンセに行きます

 

38日目 スペインにある「日本的温泉」オウレンセの温泉と食事でご満悦

38日目(令和元年9月27日)

スペインに日本の温泉があった!!温泉街オウレンセからライブ配信

今日と明日は休養日。昨日オセブレイロから自転車で40数キロを一気に降りてきたので2日間の休養日となりまhした。

そこで今日から1泊2日でオウレンセへ。

オウレンセはローマ時代からの温泉があった町です。

ミーニョ川沿いにいくつもの温泉場が点在しています。

サリアからは鉄道で1時間半でオウレンセに着きます。

駅からタクシーでオウタリスという温泉場へ。

タクシーを降りて川沿いをあるいてから橋を渡り対岸へ。

橋を渡り切ったところに公的な温泉があります。

小雨が降っていたので、ここにはいるのやめて、5分から10分川沿いを町に戻る方に歩いて日本的な温泉の施設へ行くことに。

ついてみると「温泉」の文字が。

竹で囲いがされた道を通って施設の中にはいると、日本的なオブジェがいろいろ飾っています。

入場料は5.7ユーロで2時間の入浴時間です。

温泉の入り方もちゃんと説明されています

露天風呂や様々な温度の温泉があり、プールサイドにある寝るタイプの椅子もありゆっくりと寛げます。

マッサージもあり日本の日帰り温泉に似た施設です。

入り口にあるレストランもあり、メニューもヘンテコな日本語で書かれていて結構笑えます。

SOPA RAMEN TALLARIN ORIENTALを注文しました

どうにも「タラリン」が気になります。

タラリーンとしたのびたラーメンが出てくるのか・・・

と思いきやスペイン語のTALLARINは麺の意味。

出てきたのが↓

ラーメンです。具はあまりはいっておらず、スープは薄い味、麺は生煮え的な硬さでしたが、美味しくいただきました。

施設には打たせ湯やジャグジーもあり

巡礼の疲れをとるにはピッタリの施設ですのでお勧めです。

サンティアゴからも行けますので、巡礼終了後にいくともっとゆっくりできるかもしれません。

帰りは1時間に1本でている観光列車(鉄道ではないですチュチュ―トレインです)に乗って旧市街地のマヨール広場へ戻りホテルへ。

夕食はホテルから近いportovelloへ。

ここが大当たりでした。

いわゆる典型的スペイン風ではなく、かなりモダンな店づくり。経営者のいとこがアーティストで、彼が壁にペインティングをしたそうです。

店の造りもいい感じ。

料理もひと手間も二手間もかかっている

手の込みよう。どの料理も美味しかったです。

タコの料理はガリシアの名物なのです。一般的な凧料理はゆでだこにパプリカと塩とオリーブオイルがかかっているシンプルのものなですが、このお店はチーズとオイルが絶妙なバランスでタコを包んでいるのです。

サラダにもソテーしたキノコが入っていて、美味しいドレッシングがかかっていたり、

マッシュルームのクリームチーズソースはお皿まで舐めたいほど。実際パンを注文してお皿をピカピカにしました。

ツナのタタキは(TATAKI)とメニューに書かれていました

デザートのチョコレートケーキは大人の味、チーズケーキはガリシアのアールスアの名産チーズを使った今まで味わったことのない触感とテイスト。

サンティアゴケーキは小さなあしらえでしっとりしたココナッツとシナモンも風味が何ともいえない美味しさ。

もう満腹になりオウレンセ絶賛をしてホテルへ。

今日も幸せ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

こんにちは開運極楽パワースポットのスピリチュアルキュレーター大村真吾です。

今回は「マグダラのマリアの【墓】と【アトリビュート】と【スピリチュアルメッセージ】」です。

 

なぜ南仏プロバンスへ行こうと思ったのか

今回の旅の二日目、サンティアゴに行く前に南仏を訪れるのは理由がありました。

それはマグダラのマリア。

今回の旅は大きな目的はサンティアゴ巡礼。

そのまえにフランスで南仏とルルドに行き、ピレネー山脈のふもとの町サンジャンピエドポーから歩き始めてスペインのサンティアゴデコンポステーラまで800kmの巡礼、ポルトガルに南下してファティマ、そのあとイギリス グラストンベリーに行く2か月余りの旅行になります。

行程のなかでルルドとファティマは聖母マリアが出現した聖地の中の聖地。サンティアゴ巡礼の途中でもその教会やお御堂は数多くあります。

聖母マリアは絶対的な存在感があります。特にカソリックであるサンティアゴの道を歩いていたら、Saint Mary・・・教会に数多く訪れることになります。

しかし聖書にはほかにもマリアが登場します。
その中でもイエスの一番近くにいたのがマグダラのマリアです。


彼女は昔より売春婦や金持ちの放蕩、一方で聖人と様々な形容がされてきました。

 

彼女がイエスの磔刑後にエルサレムから流れ着いたのが南仏プロバンスのサンメアリードラメール。
そしてそこからやってきて33年ものあいだ隠遁したのがここセントボームなのです。

巡礼をするにあたり、もうひとりのマリアを感じておこうと思い念願のプロバンスにやってきたのです。

宿泊地のエクスアンプロバンスから車で約30分、サン マクシマン ラ セント ボームへ。

この町の聖メアリー マドレーヌ教会にはマグダラのマリアの聖遺骸があるのです。

何度かフランスには来ていますが、まだマグダラのマリアの聖地には来たことがありません。

今回のチャンスを逃すものかと日にちを前倒しにしてプロバンスを訪れたわけです。

 

 

マグダラのマリアとは?

●出身地がマグダラ
マグダラのマリアのマグダラとは諸説ありますが、一番有力なのは地名です。
イスラエルのガリラヤ湖畔にマグダラという小さな町があったとされています。
その町の出身なので「マグダラのマリア」と呼ばれています。

●イエスに香油を塗る
その町にひとりの罪深い女がいて、イエスが、パリサイ人の家で食卓に着いていることを知り、
香油の入った石膏の壺を持ってきて、泣きながら、イエスの御足を涙で濡らし、その涙を髪の毛で拭い、
口づけをして香油を縫ったとあります。
そしてイエスは女の罪を許し「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言います。

●七つの悪霊
ここでマグダラのマリアの名前は出てきませんが、そのあと
七つの悪霊をイエスに追い出してもらったマグダラのマリアと記されていることから彼女を描く際に「香油」がアトリビュートとして使われることになったのです。

ちなみにアトリビュートとは神や聖人、歴史上の持ち物で、絵画に絵がれる際にそれを描くことで持ち主を特定する役割のことを示します。

エルサレムの近郊のベタニア(マグダラのマリ、マルタ、ラザロの兄弟が住んでいた)にイエスが来たとき、マグダラのマリアが非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったとあります。
ちなみにユダは「なぜそのナルドの香油を300デナリオンで売って貧しい人たちを癒さなかったのか」言います。
そこでイエスは「この人のするままにさせておきなさい、私の葬りの日のためにそれを取っておいたのだから」
ちなみに1デナリオンは1日分の賃金に相当したそうです。
1日1万円だとすると、約300万円。大金です。彼女はその大金を持っていたのか、あるいはその価値のある香油を持っていたことになります。

●磔刑のイエスを見届ける
イエスが磔刑に処されるとき、彼女は遠くからガリラヤからやって来た女性たちと見届けたとされています。

●再生の発見者
磔刑後イエスが葬られたゴルゴダに行き、そこでイエスの復活を目のあたりにします。
そのとき、イエスの身体に触れようとした彼女にイエスは
「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上がっていないのだから」と言われます。
このシーンは多くの絵画に描かれています。

●イエス復活を伝えた人
そして「私の兄弟のところへ行って、こう言いなさい「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また私の神であり、あなたがたの神である方のところへ私はあがる」
とイエスの復活を弟子たちに伝える役目を名刺られたのです。
そして彼女は使徒たちのもとに伝えに行きます。
それが理由で「使徒たちへの使徒」と呼ばれ東方教会では亜使徒(使徒と同じような働きをした者)とされています。

 

マグダラのマリアを描いた絵画そしてアトリビュート

マグダラのマリアが描かれている絵画をいくつか見てみましょう。

彼女のアトリビュートは香油です。
携香女とも呼ばれているので香油の入った壺は彼女のシンボルのようなものです。
そして長い髪の毛。髪で涙を拭うというように豊かな長髪が描かれています。

そして髑髏。これはイエスの死に一番近いところにいたからなのか、またはゴルゴダの丘の「ゴルゴダ」の意味が古代のヘブライ語では「髑髏」だからなのか定かではありませんが、マグダラのマリアがの傍らによく髑髏が描かれています

そしてしゃがんでいることが多いようです。
聖母マリアは立っている印象がありますが、マグダラのマリアはしゃがんでいることが多いです。

しゃがんだ姿がよく描かれているのは、御足に香油を塗ったりしていること、イエスに癒してもらった、イエスの遺骸の前で悲しむということが要因なのでしょう。

そしてなぜ香油を持っていたのか?

しかも貧しく病人がいたという村で香油を持っていたマグダラのマリア。

当時、土葬で遺体を布で覆い防腐のために香油を塗っていたといわれています。

金持ちの娘であったという記述もあることから想像すると、病人が多かった村(伝染病患者がおおくいたのかもしれません)その町になんらかの理由でマグダラのマリアは住んでいました。彼女は裕福だったので自分の死期がきたときのために香油を携えていた。そこにイエスがやってきました。周囲からは隔離されたような場所であるにもかかわらずイエスは癒しを施したのです。感謝の涙をながすのも当然でしすし、御足に口づけをすることもするでしょう。それだけイエスを敬愛したのだと思います。だからいつも香油を携えている。ゴルゴダの丘でイエスの遺骸にも香油を塗ろうとしても不思議ではありません。

彼女はその時できる最善をしたのです。

無垢な最善の行為が次の最善を呼ぶのでしょう。

だからこそイエスはユダの言葉に対して この人のするままにさせておきなさい、私の葬りの日のためにそれを取っておいたのだから」 といったのです。

この時がくるのをイエスはわかっていたのでしょう。

そしてそれだけの役割がマグダラのマリアにはあったということになります。

 

彼女のお墓ともいうべき聖メリーマドレーヌ教会

https://youtu.be/2gEcWOqcLbw
マグダラのマリアの聖遺骸がある教会。南仏サン=マクシマン=ラ=セント=ボームにある聖マリーマドレーヌ教会 しんごチャンネル


サン・マクシマン・ラ・セント・ボームのいう町の中心に教会はあります。


街の中心部は道が細く、しかも休日だったので通行止めになっているところもあり、ナビに従っても行き詰ってしまいます。
駐車場も思うようにさがせなくて、右往左往しているうちに路上にならんだ術繋ぎのなかに1台分のスペースを発見!
そこに車を止めて教会に歩いていきます。
車だと狭い石畳の道も歩けば爽快。


あっという間にサンマリーマドレーヌ教会にたどり着きました。


教会の門にTOMBEAU DE SAINT MARIE MADELENE 聖マリア マドレーヌの墓 つまりマグダラのマリアの墓
と書かれています。
教会の中にはいると讃美歌が唄われていました。
荘厳ななか最深部に進んでいきます。
そこにはマグダラのマリアの絵があり、その前で参拝する椅子が設けられています。
入り口から見て左手にクリプトがあります。


そのクリプトのなかにマグダラのマリアの聖遺骸が安置されているのです。
格子の中に見えるのは頭蓋骨。

 

蛍光灯に光が反射して怪しく見えますが、クリプトの中は静粛な感じです。

サントボームの洞窟で隠遁し、遺骸がこの教会があった場所の下に葬られたといわれます。

波乱に満ちたその一生をなぞるようにしてこの教会で黙祷してみます。

するとある感情が沸き起こってきました。

それは彼女が携えた香油の香りを感じてみたいという思いでした。

 

アトリビュートの香油に出会う

香油を求めて教会の売店に行ってみました。
そこにはマグダラのマリアのメダイはいくつかあるのですが、香油はありません。店を見回すとガラス棚のなかにエッシャンシャルオイルのようなものを見つけました。


手にしてみるとラベルに描かれているのはローズマリー。
確か彼女が携えたのはナルド(スパイクナード)


すべての便を見てみますがナルドはありません。
せめて香油を入れる壺のようなもは・・・と探すもそれもなし。

他の場所でスパイクナードを買っても意味が無くて、このマグダラのマリアが没したところで欲しかった・・・

 

売店の人にメダイの会計をしながら、ナルドがあるかと聞くも反応なし。
そして、次に行くマグダラのマリアが籠った洞窟への行き方を尋ねると

「開いてないかも」との返事。

愕然!! ナルドもなければ洞窟にも行けないなんてプロバンスに来た意味が半減もいいところ。

かろうじて教会の裏にあるツーリストインフォメーションがあることを聞き出して教会の外へ。

教会の外に出ると、音楽隊のような一団が演奏の準備をしていました。
ちょっと聞いて行ってもいいかなとも思いましたが、あまりの喪失感に呆然としてともかく教会のとなりにあるインフォメーションに行ってセントボームへの行き方を尋ねました。

すると地図で行き方を教えてくれて、洞窟は開いていますよとの返事。

良かった

嬉しくなると急に空腹を感じてランチをとることに。


教会の前の道にあるお店に入ろうと歩いていたら天然石らしきものを置いているお店が目に留まりました。
もしかしたらあるかもと思いお店の中へ。
天然石やメダイなどにまじってエッセンシャルオイルが並んでいるコーナーがありました。
そこに行って一本づつ確かめるもやはりナルドはありません。
店内を見渡してもほかにある様子もないのですが、お店の人に尋ねてみると


「あるわよ」


隠れるかのようにナルドの小瓶が並んでいました。
その名も Nard de Marie Madeleine

見つけたーーーー

 


しかも既製品のエッシャンシャルオイルの中のスパイクナードではなく
まさにマグダラのマリアのナルド。
これをもってセントボームに行ける!!

 

 

聖地セント ボームへ

ランチを食べて車に乗り込みセントボームへ。
セントボームとは山塊で南仏のブ―シュデュローヌ県とヴァール県にまたがっています。
標高は1147メートルのテーブルのような形の山です。

教えられた道をグーグルマップで追っていくとそれらしき場所に到着。
確か教会があると言ってたけどそれらしき建物はありません。
車はこれ以上すすめなくて、山道が先に続いています。
ピクニックに来ている親子がいたのでサントボームはどこか尋ねると
この山道ので20~30分の距離だといいます。
それならと車を止めて歩き始めました。

ところどころに礼拝所のようなものがあり、その先にセントボームがあることを伺わせます。

途中で行きかう人たちもいて一安心。
20分ほどいくと分岐点がありレンジャーの方が話しかけてきました。
どうやら山火事が起きる気配があるらしく、
今日は5段階の4レベルだそう、5レベルになると入山できなくなるとのこと。
もし明日もこの周辺のハイキングに行くのであれば行政のホームページで確認をすすめられました。
アメリカもそうですが世界中で山火事が発生しているようです。

 


レンジャーの方にセントボームへの行き方を尋ねると、
このまま右側にすすめば10分くらいで到着するとのこと。
教会はどこにあるかと尋ねると、左側の道を登って20分くらいで行けるいいます。
さらに、教会から洞窟までは行けますかと尋ねたら45分くらいの距離であることがわかりました。
そこで、先に教会に行ってそのあと洞窟に行くことにしたのです。
それが間違いの始まりでした。
街のツーリストインフォメーションの方が教会まで車で行けて、そこから2つの行き方あって45分くらで洞窟に行けると聞いていました。
それが頭の中にあったので、
頭の中に教会と洞窟がセットになっていたのです。

 

 

私たちは左の道から教会を目指しました。

山上のチャペル サンピロン礼拝堂

そんなに急じゃない道を行くと思ってたのが大間違い
急な勾配がどんどん続きます。


山塊は切り立っているので直線で登っていくことは不可能なので
山塊を廻りこむように登っていきます。


25分くらい登ったでしょうか、急に平坦になり木の向こうに白い建物が見えました。


山塊の上比較的たいらですぐ反対側は崖になっています。大きさのたとえがおかしいですが
携帯電話を横にたてたような感じの地形です。
その頂上はエッジ状ではるか向こうにまで続いています。

山頂から続く尾根


山頂の小さなチャペル、サンピロンはつつましやかに佇んでいました。
門はあいてなかったですが、格子から伺うと天使に導かれるマグダラのマリアが祀られています。


静寂、達成感、爽快感そして神聖感。
何とも言えない静粛な気配が漂っています。
マグダラのマリアは当時ここに天使に導かれたといわれています。
ここまで来てよかった、素直にそう感じさせる場所です。

 

 

ここは地上か? はたまた・・・

礼拝堂から洞窟に向けて出発。
どこを歩けばよいかもわからず、看板も道しるべもありません。


ここはどこ?私は誰?
殺伐とした風景は地球とは思えないような風景。
黄色と赤と白の印があることに気づき、それを追うことに。


度々見失うもなんとか進むと黄色いXの印と□に●の茶色い印。

 


なんだろうと思いそちらに行くと崖。


Xは行っちゃだめのサインだろうと思い、
またまっすぐに進んでいきました。
あるくこと40~50分。ずっと尾根を歩いていることになります。
「なんかおかしい」
先に行くのは違うという直観。
もとの礼拝堂までもどり、行きと同じコースをもどることにしました。

 


やがて先ほどのヘンな目印のところにでてきました。
思い直して、もういちど崖の方にいくと、なんとなく道らしきものが崖を伝って下に伸びています。

 


もしかしたらこの道か!?
思い切って、この道をくだっていくことに。茶色い目印がところどころでてきます。


そういえば□に●も茶色でした。
ここで直観
この形は洞窟を現してるんじゃないか!!
さらに15分くらい歩いていくと遠くに人の声がするような。
広めの登山道と合流してやがてレンジャーに会った場所に戻っていました。
よかった!!
ここからはもう10分でセントボーム。

 

 

セントボーム(聖なる洞窟)へ

ついにセントボームに到着。
門をくぐると左側にゴルコダを模した場所があります。


洞窟の前は広くなっていて断崖を背にしてピエタがあります。
洞窟は思ったよりも広くほろがっています。

ステンドグラスが印象的です。
下に降りる階段があり岩座のようなものもありました。


ここでマグダラのマリアが祈りや瞑想をしていたのでしょうか。
その奥からは水滴の落ちる音がします。
湧き出る水もあるのでしょう。
何時間でもいれる空間です。

匂いによるスピリチュアルメッセージ

上にあがり、讃美歌をききながら香油ナルドを手につけました。
耳からは讃美歌の波動、そして鼻からはナルドの香りが中枢神経を刺激します。
目を閉じて聴覚と嗅覚に意識を向けていきます。
感覚がどんどん広がっていきます。
いつしかゆらゆらと優しく揺れて抱かれているような感覚。
網膜に光が差し込んできて明るくなってきます。

すると天啓がやってきました

それは

大いなる愛の元で最善を尽くす

マグダラのマリアはイエスという存在の大きな愛を受け、無条件に最善を尽くすことをしたのでしょう。

それはユダのいうような実務的なことではなかった。

彼女の行動は無垢なパワーに満ちていたのでしょう。

マグダラのマリアは兄弟やあと二人のマリアとともに今の南仏にたどりつきます。

そこからここセントボームの洞窟に籠り最期を迎えることになります。

この場所はその後歴代のフランス王が訪れる場所となりました。

今もマグダラのマリアの御力は洞窟からあふれ出し、訪れる人を優しく包んでくれます。

そしてこう教えます

「愛の元で最善を尽くせ」と。

最後までお読みいただきありがとうございました。

今回は「マグダラのマリアの【墓】と【アトリビュート】と【スピリチュアルメッセージ】」でした。

このあとサンティアゴ巡礼に歩き出します。

そのようすもブログ、youtubeしんごちゃんネルにアップしていきますので、ごらんくださいね。

 

こんにちは。開運極楽パワースポット巡りのスピリチュアルキュレーター大村真吾です。

今回は「聖地サンティアゴ デ コンポステーラへの巡礼に出発」です。

令和元年8月15日 成田空港からバンコクを経由してパリに向かいます。

カソリックの聖地サンティアゴ デ コンポステーラへの道をカミーノといいます。イエスの使徒のひとりヤコブの遺骸がある場所、それがサンティアゴ デ コンポステラ大聖堂なのです。そこを目指す巡礼の道を「カミーノ」と言われています。「カミーノ」とは「道」のこと。そしてカミーノを歩く巡礼者同士や町の人達は「ブエン カミーノ」と声を掛け合います。「ブエンカミーノ」とは「よき巡礼を」という意味になります。

パリのシャルル ドゴール空港での出来事。

今回一緒に歩く、みゆきさん、ひろこさんと荷物を受け取るターンテーブルで待っているときの事。

一人のフランス人男性が話しかけてきました。

そこで、私たちがこれからカミーノを歩くということを話すと、電話番号を教えるから、困ったことが起きれば連絡してきなさいと言ってくれました。

もう天使が現れた!!

TGVに乗って南仏 エスアンプロバンスへ

TGVの中でライブ配信したので見てみてください

パリから南仏エクスアンプロバンスへTGV

エクサンプロヴァンスでレンタカーを借りてまずはホテルへ。

以前ポルトガルでレンタカーをしたときマニュアル車しかなくて苦労したことがありました。

右手でシフトレバーを操作するのが難しいので、くわえてロータリーに慣れてなくて散々だったのです。

ヨーロッパの人達はマニュアル車が好きなんですね、90%くらいの車がマニュアル車なのです。やっとオートマ車を用意してもらってホテルに行くのですが、やっぱり道が難しい。。。ロータリーのどこで出ればよいかが解らず一方通行が多くて道が狭い・・・ アメリカは運転しやすいけどヨーロッパはやはり難しいです。

なんとかホテルに到着して、マルセイユに行くことに。

マルセイユと言えばブイヤベース。ブイヤベースといえばマルセイユ

というわけで港の前にあるシーフードのレストランでいただきました!!

写真はこれからブイヤベースにはいる6種類の魚たち。

目もお腹もいっぱいになりました。

お腹いっぱいになってエクスアンプロバンスに戻り初日の夜を迎えました

というわけで今回は 「聖地サンティアゴ デ コンポステーラへの巡礼に出発」 でした。

2019年10月 369回スケジュール

24日

13:00

東京V  6回目

クラブワールド

24日

19:00

東京U 10回目

クラブワールド

25日

13:00

東京T 10回目

クラブワールド

26日

未定

大阪 トーク会

オレンジカウンティカフェ

27日

11:00

大阪 新規チーム 1回目

天満橋

27日

14:00

大阪 新規チーム 2回目

天満橋

29日

13:00

守谷 6回目

アースハーモニー

30日

12:00

谷本グループ 6回目

クラブワールド

       

こんにちは開運極楽パワースポット巡りのスピリチュアルキュレーターの大村真吾です。

今回はペルーボリビアのツアーに出かけていたことについて書いていきます。

テーマは「古代アンデス文明・インカ帝国の謎を探る旅~ミイラは見つかるのか?!~」です。

1日目(620日) 日本からペルーへ

成田空港を出発してヒューストンへ。

初めてヒューストン空港。

到着が早朝のためか、イミグレーションも空いていて、快適なアメリカに入国。いつもセドナやマウンシャスタに行く時はロスアンゼルスやサンフランシスコで入国に時間がかかり辟易するのと比べると雲泥の差。

しかもヒューストンといえばNASA。やはりNASAのショップがありまだまだ行きのトランジットだというのに買い物をしてしまう。

地図

そしていよいよリマ行きの飛行機に搭乗。北米から赤道を越えて南米へ。現地時間の620日午後11時くらいにペルーの首都リマに到着。

到着後、迎えのバスに乗ってリマの新市街のホテルへ。

2日目(6月21日)リマからクスコ、インカ帝国の遺跡オリャンタイタンボへ

早朝にチェックアウトをして空港へ。クスコ行き搭乗。朝早いフライトにもかかわらず満席。

アンデス

飛行機の機内から見えたアンデスの山

海抜数メートルのリマから標高3700メートルのクスコに到着。

クスコ空港

インカ帝国的な装飾のクスコ空港

やはり空気が薄い。頭が何となく痛いし、一気に話すと息切れがする。

富士山登山で歩きながら3800メートルに登っても高山病になる場合があるのに、飛行機で1時間という短時間で3800メートルも上がるのだから当然だ。

クスコは石組みの街。目を瞑って壁を撫でたら繋ぎ目がわからないほどの成功さ。

壁

インカ帝国は1438年から始まりクスコはその首都でした。

1400年代にこの石組みが作られたとしても驚きだが、実は石組みの歴史はもっと古い。

インカ帝国以前をプレインカと呼び紀元前まで遡るアンデス文明はまだまだ解明されていなく、発掘されていない遺跡がねむる未知の世界だ。

クスコから郊外にあるサクサイワマン遺跡を訪れる。

ここの石組みは巨大でかつ繊細だ。クスコ市内の精巧さを巨大にしたもので且つ太陽の向きも考慮にいれた圧巻の遺跡である。

サクサイワマン

そこからケンコー遺跡に足を延ばす。ケンコーとはケチュア語で迷路を意味する。

岩の中などに作られた細い道がスペイン人には迷路に見えてケンコーと命名された。

しかしケチュア人にとって、そこは迷路ではなく再生の場所であった。

魂の癒しの場所であるケンコーは今も訪れた人に癒しをもたらす。

ケンコー遺跡

ケンコー遺跡

しんごちゃんネル「癒しの場所健康?ケンコー遺跡ペルーの聖地

そして最後にタンボマチャイを訪れた。ここは泉が湧き出る聖地だ。

インカ帝国の当時、王や王妃が沐浴をした場合とされている。

しかしその源泉がどこにあるかは今も定かではない。当時の建築家だけが知っていたと言われている。

タンボマチャイ1

タンボマチャイ2

そしてマチュピチュへの列車の始発の街オリャンタイタンボに宿泊をした。

3日目(6月22日)

インカ鉄道に乗ってマチュピチュへ。アンデス インカ帝国の空中遺跡「マチュピチュ遺跡」

列車でオリャンタイタンボからマチュピチュへ。

列車

しんごちゃんネル「天空の遺跡マチュピチュへ。ペルーレイル鉄道の旅

この鉄道は線路は国有で、インカレイルとペルーレイルの二社で運営されている。

天井までクリアなガラスで出来た車輌はマチュピチュ村に向けて標高を下げていく渓谷の展望を約束してくれる。

時に見える氷河を頂いたアンデスの山々を見ながら約2時間でマチュピチュ村に到着。

ホテルのポーターに荷物を預けてマチュピチュ遺跡へ行くバスに乗る。長い行列を待ちやっと乗車。つづら折れの急坂を登ること20分ほどで遺跡の前に到着。

マチュピチュ1

マチュピチュ遺跡に入るには事前の予約が必要だ。入場制限は厳しくチケットとパスポートが一致しないと入る事ができません。

マチュピチュ遺跡のゲートを通り、左方向に進み石段を登っていきます。

リャマが草を食んでいる脇をとおり、遺跡の上部に上がっていきます。

マチュピチュ2

この先に太陽の門があり、マチュピチュとクスコを繋ぐインカ道があります。

マチュピチュ4

またマチュピチュ峰にのぼる登山道もあります。

上部にいくと遺跡を見渡せる場所にでます。

マチュピチュ3

この辺りまでくると人も減り、ゆったりと遺跡やワイナピチュ峰、ウルバンバ川の谷を眺めることができます。

一番奥までいくと瞑想をすることも可能です。ぜひここまで足を延ばしてひと時を楽しんでみてください。

マチュピチュ遺跡のなかには多くの見るべき場所があります。

たとえば壁に空いている置物台のような穴があります

マチュピチュ5

一般的には物置的な解釈がされていますが、この穴の中に顔を入れて声を出してみます。

高い音を出すのと、そのままに聞こえるのですが、

低い音を出すと、音が増幅して大きく聞こえるのです。

マチュピチュはアンデス山脈の中に在り、この地帯は昔から地震の多い場所でした。

地震の発生、つまり地鳴りのような低い音がした場合、ここが音が増幅して地震を知らせる働き

があったのかもしれません。

あるいは、ある一定の周波を建物から逃がすような免振の役割を果たしたのかもしれません。

また意味がわからない窪みもあります

マチュピチュ6

上の写真は「石臼」と呼ばれている窪みです。

これは水を貼り太陽や月あるいは星を映したのではと考えられます。

天文学的な装置であると思われる一方、それらのエネルギーを水に転写して人間が天体のパワーを授かる場所とも考えられます。

まだまだたくさんマチュピチュの中には解明されていない秘密が沢山あります。

しんごちゃんネルにも動画をアップしたので見てみてください

一般の切り口とはちょっと異なる「マチュピチュ遺跡」

マチュピチュ村に下山して遺跡の感動を語らいながら夕食。

マチュピチュの夜が更けていきます

 

4日目(6月23日)マチュピチュ峰登拝、オリャンタイタンボ遺跡。

今日は2組に分かれて行動。私はまさこさんと共にマチュピチュ峰へ。もう一組はマチュピチュ村散策。

マチュピチュ遺跡の両側にはマチュピチュ峰とワイナピチュ峰がある。

共に1日の入山者数が規制されている。なぜかワイナピチュ峰の人気が高く予約が取れない事も多い。

今回はワイナピチュ峰の予約がとれず、マチュピチュ峰に登拝することになった。

マチュピチュ7

マチュピチュ遺跡標高2430メートル

ワイナピチュ峰は標高2720メートル

一方マチュピチュ峰は3061メートル。

昨年はワイナピチュ峰に登ったので今年マチュピチュ峰に登ると2つの頂きから遺跡を見たことになる。

マチュピチュ峰はワイナピチュ峰より緩いと言われている。

確かに急な階段はワイナピチュの方が長く、段差も激しいかもしれないが、マチュピチュ峰もかなりの登りである。

マチュピチュ8

しかし行程中や頂上で眺める光景はその代償に値する。

遺跡とワイナピチュ峰を眼下に見る光景は素晴らしいし、氷河のアンデス山脈も絶景だ。

マチュピチュ9

しかも、何故マチュピチュ遺跡があの場所に出来たかが分かる気がする。

渓谷の下からでは、そこに街があったことすら想像出来ないがマチュピチュ峰から見ると実に理にかなっているのだ。

マチュピチュ10

下山をしてマチュピチュ村から再び列車にのりオリャンタイタンボへ。

列車の中で職員達のファッションショーが始まる。

今まで飲み物や軽食を配っていた職員が賑やかな音楽と共に様々な服に着替えて通路をモデルの様に歩いていく。

この服やストールは車内販売されていて、ショーはいわゆるプロモーションだ。マチュピチュ11

マチュピチュ?オリャンタイタンボは数種類の列車があるが、ファッションショーがあるのは私達が乗った列車だけらしい。

そういえば昨年の列車ではやっていなかった。

オリャンタイタンボ駅に着きガイドのカルロスさんの計らいで今でも遺跡の中で暮らしている民家を訪れた。

マチュピチュ12

道の上に光る宵の明星

このオリャンタイタンボの遺跡の町は宵の明星が見える方向に町の道が出来ていると言う。なんともロマンティックかつ天文的だ。

遺跡には当然人が住んでいた訳で、そのまま今も住み続けているので石組みの家の中は当時のままである。

マチュピチュ13

壁には柔術的なものがずらりと並んでいる。

先祖の骸骨が祭壇に置かれ、リャマやアルパカの胎児の干されたものも飾られてる。

しかし、決して気味悪い印象は不思議となかった。

遺跡の中で、往年と同じように信仰とともに生きているという伝統を感じることができた。

しんごちゃんねる「遺跡の中で暮らす人々。インカ帝国の様子が伺えるオリャンタイタンボ遺跡に住む人々。」

をアップしていますの見てくださいね

オリャンタイタンボを後にしてクスコへ向かう。

 

5日目(6月24日) クスコ 太陽の祭典インティライミとラクチ遺跡

今年の夏至は6月22日だがペルーは南半球にあるので冬至となる。

太陽を崇拝しているインカの人々にとって冬至は1年で最も重要な日といっても過言ではない。

当時からその日のお祭りをインティライミと呼び毎年6月21日から24日の間に開催してきた

しんごちゃんネル【インカ文明の冬至の太陽の祭典「インティライミ」 南米三大祭り】 

インティライミ

スペインに統治された時期はキリスト教化の為に厳しく規制されていたが、水面下で継承されて1900年から再び復活を遂げた。近年は毎年6月24日に固定されて開催されている。

ガイドのカルロスさんの機転で太陽の神殿から出てくる儀式の行列を見ることが出来た。

インティライミ2

神殿から演説をする王と側近のシャーマンとのやりとりも目にすることが出来たのは非常にラッキーだった。

インティライミは夕方までアルマス広場、サクサイワマン遺跡と場所を変えて行われるが私達はチチカカ湖畔の町プーノへ。

途中でバカでかいパンを買って食べる。

パン

インカでは町々に仕事が決まっていて、パンを作る町、煉瓦を作る町、陶器を作る町などなど役割が決まっていたそうだ。

今もその役割が伝統となっている。ちなみにクスコの市場で見られるこの大きなパンは、この町の人たちが売りに来るらしい。

このパンは有名なのでプーノやその他の手に入れる事が出来ない町にお土産で持っていくと喜ばれるという。

次に訪れたのがラクチ遺跡。

ラクチ

城壁のように見えますが、これは建物の中心で、この左右に柱があり(円柱の列が柱の跡です)その上に屋根がつていたそうです。

このラクチがクスコ周辺に住むケチュア族とチチカカ湖周辺に住むアイマラ族の境であったそうです。

このラクチ遺跡はインカ帝国(ケチュア族)のもので、アイマラ族に対しての威容を見せるためのものでもあったそうです。

しんごちゃんネルを見てみてください「インカのラクチ遺跡が凄い!&ラクチ教会の最後の晩餐とは?」

このラクチ遺跡には教会があります。

ラクチ5

いうまでもなくスペインがキリスト教化するためにラクチに作ったもので、ラクチがキリスト教であった訳ではありません。

この教会も壁画がいかにもペルー的なのでご紹介したいと思います。

ラクチ2

最後の晩餐の絵ですが、この晩餐がアンデスの重要なたんぱく質である「クイ」なのです。

ラクチ3

実際のクイはこんな感じです

ラクチ4

 インカ帝国を作ったのはクスコを中心としたケチュア族でした。

彼らはクスコから北部へ勢力を伸ばし今のコロンビアあたりまでを支配下に置きます。

その後南へ勢力を伸ばしますが、チチカカ湖から南にいたのがアイマラ族でした。

アイマラ族の方がケチュア族よりも起源が古いともされ、大きな勢力を持っていました。

アイマラ族はケチュアに対抗するよりは経済的な関係を結んだようで、心理的には独立心が旺盛だったようです。

だからこそ、このラクチ遺跡が創造されたといわれています。この遺跡では多くの神官や巫女たちが居住し、その周りには食料貯蔵庫や一般の住民が多く住んでいたそうです。

今もクスコ周辺の人達はケチュアの流れをくみ、チチカカ湖周辺はアイマラの流れをくむ人たちが住んでいます。

ちなみに私たちのガイドのカルロスさんはケチュア族だと言ってました。

彼曰く性格・気質も違うとのことです。

クスコからチチカカ湖畔の町プーノに行くには標高4335mのララヤ峠を越えていきます。ラクチ6

この峠にはリャマやアルパカで作った小物や敷物がお土産で売られています

ラクチ7

ラクチ8

4300mを越えるのでちょっと 息が苦しいなあ・・・と思いながらもいつも買い物をしてしまいます。

そして夕刻チチカカ湖畔のプーノに到着します。

 6日目(6月25日)チチカカ湖の隠された意味とは? タキーレ島とウロス島

 朝、朝食を終えてホテルの前にある桟橋へ

チチカカ1

 ここからボートに乗りウロス島へ。

チチカカ2

ウロス島とはチチカカ湖に浮かぶ人口島のことをいいます。

チチカカ湖に自生する葦で作られています。

葦を刈り取りブロックにして束ねたものを3mくらいに積み上げて、さらにその上に乾燥した葦を敷き詰めて島を作っていきます。

チチカカ湖にはこのような島が300ほどあり、一つの島に4家族ほどが生活しています。

島に行くと民族衣装を着たり、島の作り方などを教えてくれます

チチカカ3

学校や集会所がある島もあり、彼らはボートで行き来をしています。


僕たちも観光用になっているボートで他の島へ移動しました

チチカカ4

このボートの動力源は「人」です。

チチカカ5

上には僕たち5人が乗り、船全体の重量もあるのでかなりの重労働をご夫婦の漕ぎ手が島まで運んでくれました。

次に向かった島がタキーレ島です。

チチカカ6

チチカカ湖はペルーとボリビアにまたがる大きな湖です。

60%がペルー領、40%がボリビア領で周囲が1125KMという大きな湖です。

高度も3812mで汽船が運航されている世界で最も標高の高い湖といわれています。

チチカカ湖と琵琶湖を比べてみました。チチカカ7

チチカカ湖 大きい! 高い! 深い!

このチチカカ湖のペルー側の中央に近い場所に位置するのがタキーレ島です。

この島は波が高いと行けません。事実私は昨年途中まで行ったのですが、湖が荒れて高波となり

途中で断念して引き返したほどでした。タキーレ

タキーレー島は「タキーレ島とその織物技術」としてユネスコの世界無形文化遺産として登録されています。

住んでいる人たちはケチュア族、チチカカ湖周辺から南のボリビア以南にわたる広大な地域はアイマラ族の

住むエリアなのですが、ここタキーレ島はケチュア族の人達がずっと住んできた島なのです。

タキーレ2

ボートがつく港から島へはいるゲート。

ゲートの上に載る顔はリーダーを示しています。つまり3人のリーダーという訳です。

タキーレ島には一つの村に3人のリーダーがいて、合計6つの村があるので、合計18人のリーダーにより運営されていることになります。もちろんスペインの法律の下にあるわけですが、日常の生活のまつわることは、このリーダによる合議によって運営されているのです。

タキーレ4

港からはずっと急な登り路が続き島の頂上にあがっていきます。

おもに人々の家や村の施設は島の上部にあります。

これらの村々をはじめ観光客の受け入れ、宿泊施設、食事の施設、おみやげ物などすべてリーダーの合議のもとコミュニティで運営され、持続可能なモデルを実践しています。

島の頂上に近い広場に唯一ともいえるおみやげ物の施設があります。

タキーレの産業は織物なので、それらを販売する施設です。

タキーレ5

タキーレ3

 競合がないように一か所しか販売施設はありません。

看板もなく、cafeやレストランがあるわけでもありません。

商売っ気が無さすぎるくらい静かな島です。

日本の世界遺産に選ばれた地域とは正反対です。

織物の島だけあって、老若男女が糸巻きや織物しています

タキーレ6

タキーレ7

しばらくの滞在中に何組もの外国人観光客も島にやっていました。

島の観光に対する考え方が静的なので、来る人達も粛々としているように見えます。

観光で金銭獲得に不毛な競争をして、外観や文化を損ねているとは対極の姿を見せつけられました。

再びボートに乗りプーノへ。

今晩は明日の次元の扉を訪れるための事前の儀式をすることになりました。

シャーマンのシルビアさんのコカ博物館に行き、セレモニーを行います。

プーノ1

自分の悪い思い出やネガティブな思い、トラブル案件、もつれた人間関係などを一つづつ解消や解放をイメージして黒いトウモロコシのひと粒づつに息を3回吹きかけて、上の写真の広げられたところに置いていきます。

生まれてからのこととなると次から次に思い出し、おかわりのトウモロコシをもらったくらいです(笑)

プーノ2

そのあと、お菓子で作った人形(これが様々な人生のシーンをあらわしています)持ちに自分のビジョンを描いて、また息を3回吹きかけていきます。

これをすべての人生のシーンで行い儀式は終了しました。

明日の次元の扉ではネガティブが解消され、浄化されたものとして次元の扉に向かうことになります。

昨年に引き続き2回目の次元の扉、楽しみです。

7日目(6月26日)次元の扉での儀式と、国境を越えてボリビア、コパカバーナからラパスへ

夜明け前にホテルを出発。

ちょうどチチカカ湖畔を車で走っているとチチカカ湖から日が昇ってきました

次元の扉2

しばしチチカカ湖の日の出を堪能して次元の扉へ向かいます。

しんごちゃんネル「最強スポット。ペルー「次元の扉」アラムムル~浄化と再生と異次元のゲートウエイ~」 

次元の扉 現地の言葉では アラムムルといいます。

ここはアイマラ族、ケチュア族にとってとても特別な場所なのです。

次元の扉

ここでも昨晩に続き儀式をして、一人ずつ次元の扉に直面していきます。

次元の扉3

中央の扉に行く前に左右の縦長にスリットで最後の感情のリリースを行います。

そしていよいよ次元の扉へ。

ここである意識状態に自分を置くと、岩の中に同化していくような感覚になっていきます。

肌がざわつような感じがして、ちょっと宙に浮くような感覚。

細胞レベルに意識を深化させていき、次に岩を透過するように意識を拡大させていきます。

次元を超えていくかのような感覚にとらわれますが、すっと意識が現実にもどり岩から離れました。

そのあと、岩から離れて瞑想をしていたら岩の扉が開いてクマのぬいぐるみのような物体が出てきました(あくまでも瞑想上の事です。だけどあの存在は何だったのだろう??)

次元の扉からボリビアへ。

国境

30年ぶりのペルーからボリビアの国境越え。

いつも陸路で国境を超えるときはワクワクします。

チチカカ湖のボリビア側の町コパカバーナへ。

コパカバーナ

美しい湖畔の街です。30年前とはかなり様子が変わっていました。

ここはケチュア族のインカ神話で最初の王にあたるマンコ カパックに関係する場所です。

諸説ありますが、チチカカ湖から生まれて地下の洞窟を通りクスコに向かったといわれています。

コパカバーナ2

マンコ カパックと王妃

コパカバーナをあとにしてボリビアの事実上の首都ラパスへ向かいます。

8日目(6月27日)マジカルなウユニ塩湖へ アンデス文明のミイラ発見か

早朝ホテルを出て空港へ。

空路ラパス空港からウユニへ。

ウユニ1

早朝のフライトだったのでウユニの街のカフェでしばらく休憩。

その後ウユニ塩湖へ向かいます。

途中で鉄道の墓場に立ち寄りました。

ウユニ2

 

ボリビアは鉱物資源が豊富で、それらを運んでいた鉄道だそうです。

今も鉄道は使われていますが、この墓場はこの地帯を操車場にする計画が頓挫したと言っていました。

この時初めて知ったのですが、ボリビアは隣のチリと国交がないそうです。

1879年から1884年にかけでボリビアとペルーの同盟とチリの間で戦争がありました。

地下資源を巡る争いだったのですが、チリが勝利しペルーの南部とボリビアの海岸部分がチリ領になったのです。

ウユニ5

戦争前の領土(黄色いボリビアの部分は太平洋に面しています)

ウユニ6

現在の領土

戦争後ペルーとチリは国交を回復しましたが、ボリビアとチリはまだ回復していないのです。

ちなみにボリビアとアメリカも国交がありません。

ところで

面白い形の帽子があったので思わず買っちゃいました。

ウユニ4

宇宙と交信するアンテナみたいです。

この形はこの辺りでしか売ってないようです。

いよいよウユニ塩湖へ

塩湖に行く前に長靴を調達して、水が湧き出ているところへ。

ウユニ7

 

水をなめてみましたが、当然ながらしょっぱかったです。

そこからしばらく行くと一面の白い世界

ウユニ8

ウユニ塩湖(ウユニ塩原)は標高約3,700メートル (m)にある南北約100キロメートル (km)、東西約250 km、面積約10,582平方キロメートル。チチカカ湖よりも広い面積を持ちます。

ウユニ9

塩湖の塩は数十mの層になっています。その塩の層を取り出してブロックにしています

ウユニ10

この塩のブロックを重ねて塀にしたり、建物を作ったりもしています。

塩でできたホテルもあります

ウユニ12

PALACIO DE SAL

これ見てなんだかわかりますか?

ウユニ13

部屋の天井なのです。

なんだかヴォルテックス感満載。

しかも塩で出来てるので浄化効果もあってスッとした感覚になれる部屋です。

ウユニ14

もちろんスパ施設もあります

ウユニ15

ウユニ16

次回はスパも楽しみたいです。

今回は塩湖の中を250KMあまりを四輪駆動で走破。塩湖の中は見渡す限り白い世界、しかも道がないのでガイドと運転手がいなければ、まったくどこに行けばよいのかわかりません。

レンタカーで走る人達が稀にいるそうですが、塩の薄いところを走って湖の中に落ちてしまうそうです。

塩湖の上でのランチ

ウユニ11

もう最高です!!!

塩湖の中に在るインカワシ島へ。

塩の湖なのに、ここにはサボテンが生えています

ウユニ17

トレッキングの道があり15分くらいサボテンの間を登って島の頂上まで行くことができます。

ウユニ18

そして対岸の村へ。

そこでは、周辺の人達の営みを知ることができます、何種類ものキヌアをすりつぶしていく道具などが見れます。

小さなその集落の原っぱみたいなところに連れていかれると洞窟があります。

ウユニ19

のぞき込むと

えっつ!!!!

そこにあるのは・・・・

ミイラ!?

ウユニ20

そうです。ここはこの集落の首長クラスの人のお墓だそうです。

数百年前のお墓がいまも残ってるのです。

アンデスといえばエジプトのようにミイラが話題出たりもしますが、博物館ではなく、こんな身近にミイラを観れるとは思いもしませんでした。

そしてウユニ塩湖ではやっぱり写真

ウユニ21

ウユニ22

ウユニ23

そしてマジカルな動画もとりました。コチラからご覧ください↓ ↓ ↓ ↓

マジカル★ウユニ塩湖

夜は真っ暗なウユニ塩湖でスターゲージング。空一杯の天の川の中から探す南十字星。

どこの星と星をつなぎ合わせればよいか分からないくらい一面の星屑。

美しすぎる・・・

ウユニの一夜がふけていきます。

9日目(6月28日)空中都市ラパスのロープウエイとアンデス文明「ボリビアの次元の扉ティワナク遺跡」

早朝にウユニ塩湖からラパスへ。

ラパスの空港から予定になかったスポットへ行くことに。

というのもペルーの次元の扉に行ったとき、アイマラのシャーマンが

「もうひとつの次元の扉がある、それはティワナク遺跡だ」と言っていたのです。

ティワナク遺跡は当初の予定には入っていなかったので、昨日ボリビアのガイドにアレンジをお願いしていたのです。

それが叶って予定を変更してティワナク遺跡に行くことになりました。

ティワナク文化は紀元前2世紀くらいから紀元1100年くらいにあったとされています。

スペイン入植の際に徹底的に破壊されたので全容は残っていません。

しかし、その面影を感じることはできます。

 ティワナク

ティワナク遺跡はかなり広く遺跡の中心部は4.2キロ平方メートル、周辺を入れると6キロ平方メートル

もあります。

上の写真は中心のカラササヤと言われる長方形の敷地の門。向こうにモノリート。

ティワナク4

これが門の向こうに見えた立像です。

カラササヤの隣には半地下状になった広場があります。

ここの四面の壁には人の顔の彫刻が施されています

ティワナク2

この顔はティワナク周辺の部族(村)を表しているといわれています。

色んな顔があるのですが、一つだけ異質なものがあるのです。

それは

ティワナク3

いわゆるグレイのように見えませんか?

現地のガイドが宇宙人のように見えると言っていました。

見れば見るほど宇宙人に見えてきます。

他の彫刻の顔とは素材も違うようですし・・・謎は深まります。

カラササヤの中に入ると、太陽の門があります。

ティワナク5

これが復元された太陽の門。場所も本来あるところとは違っています。

前述の門と一直線上にこの太陽の門もあったといわれていますが、スペイン人により破壊され

今ある場所に残骸があったので、その場所に復元されたとのことです。

この太陽の門がシャーマン曰く「次元の扉」です。

ティワナク6

これが中央の神を現しているといわれる部分の拡大図。

この神は宇宙神とも考えられます。

その周りにいるの存在はよく見ると顔が人間で姿が鳥。 鳥人間です。

これらは眷属的存在なのでしょう。

宇宙神と大地をつなぐ眷属たちが鳥人間。

この鳥人間は宇宙と地球を行き来したのでしょうか。

そうなると、先ほどの宇宙人てきな彫刻の顔の部族がいたことがリアルに見えてきます。

分かりやすく絵にしたものです

ティワナク7

ティワナクから出土した素晴らしいものもあります

ティワナク8

ティワナク9

このように儀式で使われていたのでしょうか

ティワナク10

なんだか凄く魅せられます。

ティワナク遺跡のすぐ近くにもうひとつ凄い遺跡があるから行こうとガイドさんに誘われます。

訪れた場所はピューマの門です

プーマの門

インカでは世の中を「天上世界」「地上世界」「地下世界」3つの次元で分けています。

天上世界の象徴はコンドルで天界を現します。

地上世界の象徴はプーマで現世を現し

地下世界の象徴は蛇で冥界を現すとされています。

天空の遺跡ともいわれるマチュピチュにはコンドルの神殿があり、マチュピチュ自体もコンドルの形をしています。

またクスコの街はプーマの形をしているといわれています。

またティワナクでは

天界には光のプーマと光の蛇がおり

地上界には普通のプーマと普通の蛇が

冥界には特殊なプーマと蛇がいるとされています。

プーマというのはコンドル同様、アンデスで生きる人たちにとって特殊な存在のようです。

このプーマの門には石をくり抜いた文様がみられます

プーマの門2

驚いたのがこの石です

プーマの門4

一直線に削られています

プーマの門5

上からみるとこんな感じ、細くてまっすぐです。

一体どのようにして作ったのでしょうか。

ティワナク遺跡、プーマの門からラパスへ戻ります。

ラパスはボリビアの首都機能を持ったボリビアのボリビア最大の年です。

空港のある辺りはアルトラパスと呼ばれ、標高は約4060メートル。

一方のラパスの市街地は標高約3640メートル。

なんと400メートルも標高差があるのです。

 ラパス4

その400mの高低差にロープウエイがかかっていてアルトラパスとラパス市街地を結んでいます。

ラパスには地下鉄はなくロープウエイが公共の足になっています。地下鉄ならぬ空鉄です。

ロープウエイはラパス市内に10本も張めぐされていています。

ラパス3

路線ごとに色分けがされていて、乗り換えができるターミナル駅もあります。

ラパス5

東京のラッシュを考えるとこのロープウエイで通勤通学するのは快適ではないでしょうか。

まず景色がいい!! そしてゴンドラには定員があるので寿司詰めにはならない!

これだけでもかなりストレスが軽減されます。

ロープウエイ乗車の様子をしんごちゃんネルにアップしたので見てみてください。

ボリビアの地下鉄がわりのロープウェイからライブ配信

ラパス市内を散策。

ガイドのカルロスさんが占い師のところに行きましょうというので

一同大賛成で行ってみることに。

するとそこは占い師の館ではなくて、占いグッズのお店でした。

占いと言っても、いわゆるシャーマニックなことに使うものを売っているお店です。

儀式に使う人形や神様をあらわすモノが並んでいます。

ラパス8

ラパス7

生薬のようなものもカラフルな箱に入っていて

ラパス10

媚薬的なモノや異性を引き寄せるモノ、アルコール依存を辞めさせる薬、

メンタル改善、悪口予防などさまざまです。

リャマの胎児やひな鳥の干したものもあります

ラパス6

こんなグッズがウナギの寝床のような店内に所狭しと床から天井まで並んでいるのです。

もう怪しさ満点です。

その様子を動画にしたのでご覧ください

そして、ラパスを案内してくれたギドさんというボリビア人のガイドさん。

初日にあった時から、かわった帽子をかぶっていたり、髭を結んで染めていたり、龍のTシャツをきていたりと

普通のガイドとは違うなあ・・・と彼の事を思っていたのです。

ラパス11

ペルーからのカルロスさんがいるのであまり話すこともせず、どちらかというとぶっきらぼうな感じ。

だけど、時々大事なことを話すみたいなアーティスト的なガイドさんでした。

ボリビアは色んな鉱石がとれてボリビアニータというシトリンとが混ざった天然石などが有名なのです。

だからよい天然石のお店に連れて行って欲しいとギドさんにリクエストをしていました。

彼が案内してくれたお店はラパスの市街地からかなり離れたルナバレーというエリアを越えた一軒家でした。

お店ではなくアーティストの工房でそこのオーナーが陶器を作り、娘さんがアクセサリーを作っているところでした。

さすがギドさん変わったところに連れてくるなあと思っていたところ、

最後にペルーからのガイドのカルロスさんとギドさんがなにやら話し込んでいます。

何話してるの?と聞いたところ

カルロスさんが「ギドさんの本当の職業はシャーマンだそうです」というのです。

ギド

やっぱりそうなんの、なんか変わってると思ってたんだよ。

それならもっと早くに行ってくれたら色んなリクエストしたのに・・・と。

夕食にギドさんにも来てもらって、いろいろ聞くと彼の父親も祖父もシャーマンだったとのこと。

そういえば昨年もチチカカ湖のガイドさんが今回もお世話になった女性シャーマンのシルビアさんで、

今回はボリビアのガイドがシャーマンだったのです。

話してみるといろいろと面白いので次回もギドさんにシャーマニックな場所に連れて行ってもらう約束をしました。

こんなにシャーマン引き寄せ率高し。

 

 

10日目(6月29日)ラパスからリマ、そして再びのクスコ

ラパスからリマにもどりリマの市内観光。

なんとランチタイムに天野博物館の阪根先生が来てくださいました。

阪根さんとは東京でお会いしたことがあり、ペルーの考古学だけでなく、世界中の古代文明に詳しく、

しかもスピリチュアルなことにも理解をしめしてくれるとっても面白い方なのです。

昨年もお世話になり、今年は予定があわなかったのですが、なんとランチに来てくださったのです。

阪根さん

しかも阪根さんならではの情報を教えてくださいました。

それは

ミイラ

またまたミイラ出現!!!!

しかも

ただのミイラじゃありません

それは

宇宙人のミイラ

驚愕

阪根さんは考古学の専門家です。

その坂根さんが「これは宇宙人の可能性がある」とおっしゃるのです。

もうテンションMAX

いやいや最後の最後にまたしても大見世物に遭遇でした。

最後とは書いたものの、ツアーはこの日のリマで終了だったのですが

私は再度クスコに戻ることになっていました。

というのも「アヤワスカ」という南米の儀式につかう植物でシャーマニックな体験をしたかったからなのです。

リマから飛行機でクスコに飛び再び3000mを越える世界に戻りました。

アヤワスカは飲むと激しい吐き気を伴いながら様々なビジョンが見えるというものです。

?ネイティブアメリカンにもサボテンの一種を飲んで同じような現象になるものがありますが、

アヤワスカの方が幻想的な世界を見るといわれています。

私は以前からアヤワスカで超常的な世界を見てみたいと思っていました。

そして今回、滞在を長くしてアヤワスカをすることにしたのです。

しかし、それにあたり医者の健康診断や付加をかけた心電図が必要であることなど準備が色々と必要でした。

日本ではスケジュールが合わないのでクスコで診断を受けるということにしていたのですが、

日本出発の数日前に、そのお医者さんが出張にいくので診断をすることが出来なくなったので

日本で診断と心電図をとってくるようにと連絡があったのです。

付加心電図をとってくれる病院を急遽さがして、出発の前日に診断を受けて

当日に診断書ができあがるというギリギリのスケジュールでした。

ところが、心電図を送ってみると負荷が足りないとのこと。

だからアヤワスカは出来ないと断られてしまったのです。

これが分ったのが最初にクスコに着いたとき。

その後、違うアヤワスカリトリートを探すということになったのですが・・・

日にちは遡ってチチカカ湖での出来事です。

ここでシャーマンのシルビアさんにコカ占いをしてもらいました。

コカ占いとは何十枚かのコカの葉を風呂敷みたいな布に置きます。

その布の四方を折りたたんで自分の胸にかざします。

そして布をシャーマンに返すと、おもむろにシャーマンは布を広げ

そこにあらわれたコカの葉の様子を見て占うというものです。

私は昨年もやってもらったので最初はやらないつもりだったのですが、

シルビアさんが貴方もやりなさいと言わんばかりに手招きをします。

そして風呂敷を胸に当て、シルビアさんに返し彼女が布をひろげます。

そして開口一番

「儀式はする必要はありません、あなたに儀式は必要ありません」

と言うのです。なんの儀式の事を言ってるのだろう?と私は思いました。

もしかして次元の扉の儀式だとしたら、私は次元の扉に行く意味がなくなってしまう・・・

そこで質問をしました

「何の儀式のことですか?」

するとシルビアさんは「飲む儀式は必要ありません、もしどうしてもやる必要があるのであれば

1回だけにしなさい。だけどそれもやらないほうがいいです」

と言ったのです。

もちろん私はシルビアさんにアヤワスカの件は一切話していません。

驚きでした。

そしてこう質問しました「どうしてやる必要がないのですか?」

すると「あなたの居る場所はここではありません」と。

「えっ?」

「あなたの居る場所はここではありません」

なるほど僕は日本人なので、クスコやチチカカ湖といったアンデスには向いていないということなのか・・・

「そうでありません、あなたのスピリットはこの次元にはいないのです」

「じゃあ どこにいるの?」

「貴方のスピリットこおkとは違う次元にいます」

「それと儀式が関係してるのですか」

「貴方のスピリットは違う次元を見ているので、アヤワスカを使ってビジョンを見る必要はありません」

そこで私は1週間後にアヤワスカの儀式を受ける予定だと初めて話しました。

すると、そうなのかという表情をうかべて

「貴方はアヤワスカをやる必要はありませんよ。やったら体調も崩れます」

私は納得したのです。

ここまで調整がつかなく、用意した心電図もダメであったのは

「お前はアヤワスカを儀式をやるな」と宇宙がメッセージを送ってきていたのです。

しかし、なんとか受けれるようにと策を講じていたのです。

だからシャーマンに言わせたのだ納得したのです。

いっしょに儀式を受けるために残ったみちよさんはどうすればよいかシルビアさんに尋ねました。

するとシルビアさんは「それは彼女が自分自身に問いかけて結論を出すだろう」と答えたのです。

その後、みちよさんは自分自身に問いかけて、アヤワスカをやらない結論を導き出しました。

そこで私たちはクスコで空白の3日間ができたことになったのです。

再びカルロスと再会した私たちは明日からのことを相談しました。

そして、コンドルが棲む谷とアマゾンに行くことにしたのです。

 

 

11日目(6月30日)アンデスの山にある月の神殿とコンドルの谷

月の谷

コンドルの谷に行く前に是非立りましょうといわれていった場所が最高でした。

その名も月の神殿

月の谷1

クスコから1時間ばかり車で走ったところにある古い祭壇です。

静かで聖なる空気が漂う場所。

サクサイワマンやマチュピチュと違い誰も居ません。

コカの葉を使い払いと生まれ変わりの儀式を行いました。

月の谷2
そして、さらに1時間以上をかけて山を下り、谷底からまた山をあがっていきコンドルの谷の村へ。

コンドル1

村からさらに1時間くらい歩いてコンドルの谷に着きました。

ここは山の頂上から谷底まで4000メートルくらの高低差があるそうです。

私たちが立っている場所から谷底でも2000mの高低差。

コンドル2

その高低差が上昇気流を生み出し、その上昇気流に乗ってコンドルが舞あっがてくるのです。

待つこと数時間。

午後三時を過ぎると急に風が吹き出します。

もうすぐコンドルが現れる時間帯だそうです。

遠くに鳥が見えました。

地元におじいさんが「あれは鷹じゃ」

コンドル3

よくみると翼をパタつかせています。

コンドルは翼を動かさないそうです。

すると遠くに雄大に飛ぶ鳥の姿が見えました

「コンドルじゃ」

全く翼をうごかさずに舞い上がっています。

あまり近くに来てくれませんでしたが、もう1羽見ることが出来ました。

日が落ちかけてきたので私たちは車に戻ることに。

地元の人達はまだ残っています。

あとから聞くと、しばらく後にもっと近くまでやってきたそうです。

帰りは馬に乗って村へ。

コンドル4

ホーストレッキングも出来てなかなか面白いところでした。

こうしてクスコでの空白の1日が終わりました。

 

12日目(7月1日)アンデス文明の知らぜらる地域アマゾン流域ジャングルへ

空白の2日目はアマゾンへ

クスコから飛行機でプエルトマルデナリへ。

ジャングル

機上からアマゾンの支流が見えます。ジャングルの中で蛇行する茶色い川。まさにアマゾン!!

一気に高度が数百メートル台までくだります。

ちょっと肌寒かったクスコから蒸し暑いジャングルへ。

アマゾンの源流のひとつにあたる川をボートで下ります。

ここはブラジルの国境までは車で約1時間の距離です。

ジャングル2

ジャングル3

ボートに乗り込みます

ジャングル4

1時間ほど川下に下りタンボパタ国立公園へ。

ジャングル5

 

 

ジャングル6

そこからジャングルを1時間あまり歩いてサント湖へ。

途中土砂降りな雨が降り出して全身ずぶぬれに。

大きな木の下で雨宿りをしますが、一向に止む気配もなく

すこし小降りになったので歩き出します。

これは何の修業なのか?

滝行のようなトレッキングでした。

やっと湖に着くと、そこから手漕ぎボートに乗り換えるとのこと。

ジャングル7

ボートに溜まっている土砂降りの雨水を桶で描きだしています。

どれだけ降ったの? という量の水。

しばらくすると雨もやみ薄日が差し込むほどに天気は回復。

水の描きだしも終わりボートで湖へ漕ぎ出します。

ちなみに漕いでいるのは現地の人達で私たちは乗っているだけ。

手漕ぎなので静かに滑るように湖面を進みます。

途中水鳥が飛んできたり、ワニが水面に顔を
出していたりとなかなのアマゾン感。

ジャングル10

虹も出て晴れやかな気分になりました。

ジャングル9

再びジャングルの中を歩き、ボートにもどって川沿いのホテルへチェックイン。

ジャングルでの一夜を過ごします。

 

13日(7月2日)モンキーアイランド、クスコからリマそして帰国の途へ

早朝に起きて、ボートに乗り込み夜明け前の川をさかのぼります。

夜明け前に出発し、周りが見え始めると朝靄に覆われました

ジャングル12

目指す場所はコルパ。

コルパとはアマゾン川流域の河岸が粘土質の崖のことをいいます。

その土壌がミネラルを多く含んでいるため鳥たちの絶好のミネラル補給源となっているのです。

コルパに到着したころ太陽が昇り始めました

ジャングル13

まだ薄暗い夜明けとともに周囲から鳥たちが集団でやってきて、崖のまわり数十メートルの木々にとまります。

ジャングル14

崖の周りの木々にはおそらく千羽を超える鳥たちがとまっているようです。

日が昇り始めるころ、木から1羽が飛び崖に近づき、また木に戻ります。

それを各集団でおこなっているようです。

どうやらはじめは1羽、その次は2羽とだんだんと数を増やし、安全であればみんなが崖に行くようです。

しかし、一向に集団で行く様子がありません。

今日は鷲が来ているようです。

ジャングル17

鷲は崖にくる鳥を狙っているのです。

結局、そこから少し離れた崖のほうが安全だったらしく、数千羽の鳥が一斉に崖に行く様子は見れなかったですが

美しい緑色の鳥たちを多く見ることができました。

ジャングル15

携帯のカメラしかもっていないので、よくわからないですが、崖のまだらに見える緑色が鳥たちです

おそらくAra severusという鳥と思われます

ジャングル18

ほかにも多種の鳥たちがやってきますが、今日は緑色の鳥が多かったようです。

そして次はモンキーアイランドへ。

この島には野生の猿が自生しています。

島の中をあるくと木の上で何者かの気配がします。

よく見ると猿が枝を飛び移っています。

ジャングル19

ガイドが声をかけると何匹もの猿が集まってきました。

持っていたバナナを差し出すと手で取って上に上がり、皮をむいて食べています。

この島にはいくつかのグループがあるそうです。

そして最後は週数民族の村へ。

ここはマチゲンガ族の村だそうです。

ジャングル22

アマゾンにはいくつもの少数民族がすんでおり、その中でも交流があるのはこのマチゲンガ族くらいだそうです。

顔に染料で線を描いてもらったり、儀礼のたばこをふるまわれました

ジャングル20

 

ジャングル21

まったく交流をもっていない部族もあり、言葉もケチャア語やアイマラ語とも違うそうです。

彼らを保護する意味でもあり、免疫を持っていない可能性があるためあえて交流を禁止してそのエリアへの入境をしないそうです。

ジャングル23

彼らの棲む場所には遺跡が眠り、金脈がある場所もあるそうです。

いま、金を狙う人たちが入境禁止のジャングルには入り込んできているのが問題となているそうです。

まさに数百年前のスペイン人が探したエルドラドの世界です。

ペルー、ボリビアはまだまだ奥深く興味深いところが数多くあります。

まさに古代史と自然の宝庫といえるでしょう。

また来年もペルーとボリビアの古代とシャーマニックに触れる旅を企画する予定です。

2020年6月中旬に企画する予定ですので、ご興味ある方はお問い合わせください。

 

というわけで、今回は「古代アンデス文明・インカ帝国の謎を探る旅~ミイラは見つかるのか?!~」でした。

 

2019年8月 369回スケジュール

8日

13:00

守谷

アースハーモニー

8日

19;00

東京U   9回目

クラブワールド

9日

12:00

谷本グループ 5回目

クラブワールド

9日

19:00

アドバンス

クラブワールド

14日

13:00

東京V 5回目

クラブワールド

8/15からスペイン カミーの巡礼です

10月22日に帰国します

令和元年7月 369会スケジュール

9日

13:00

守谷

アースハーモニー

10日

13:00

東京V   5回目

クラブワールド

 

19:00

東京U  8回目

クラブワールド

11日

12:00

谷本グループ   5回目

クラブワールド

 

19:00

東京アドバンス

クラブワールド

17日

13:00

東京T 9回目

クラブワールド

 

18:30

古事記の神

クラブワールド

18日

13:00

東京R 12回目

クラブワールド

 

19:00

マヤ メキシコ説明会

クラブワールド

 

 

 

 

こんにちはスピリチュアルキュレーターの大村真吾です。

今回のテーマは【シャスタとレムリアとツインレイ】

私は少し前までアメリカ カリフォルニア州北部にある聖なる山マウントシャスタを訪れていました。

シャスタ

マウントシャスタは遠くレムリアの時代。そのレムリアの時代とはアトランティスやムーといった現在把握されている歴史よりさらに古い文明のタームのことです。

従って、実存するのは定かではありません。

旧約聖書においてノアの箱舟でまつわる部分で描かれてるように、超古代には洪水など大きな自然現象で滅亡した文明があってもおかしくありません。

レムリアもその一つで、滅亡する寸前にレムリアの人々が逃げ込んだ場所、それがマウントシャスタの地下であるといわれています。

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超古代にマウントシャスタで何があったのか?

そして最近俎上に上がることが多くなったツインレイとは何なのか?

そんなことをマウントシャスタでなんとなく考えていました。

それらを記しておこうと思います。あくまでも私の思っていることですので、ファンタジーとして読んでくださいね。

まずはレムリアについて。

まずレムリアと同時によく言われるのがアトランティスとムーです。

アトランティスは大西洋にあたる部分にあった大陸。

そしてこの大陸では今よりも発達した文明があった。科学的、物質的にもいまよりは高度な文明であった。

しかし、その高度な技術に人々の精神性がミスマッチを起こし、結果的に崩壊してしまう。

策士策に溺れる的な終末であったように思えます。

一方ムー大陸、これはレムリアと同一であった気がしてなりません。

レムリアはアトランティスとは反対で高度な精神性を伴った文明でした。

レムリアは愛と光で覆われた場所でした。

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悪や罪がなく善のみが存在するような世界、疑うことを知らない世界だったのです。

したがって無防備で外敵や圧倒的な自然現象は無力だったのです。

そしてそのレムリアンのン中で自分たちの未来を予見して脱出した人たちがいたのです。

彼らが潜んだところはマウントシャスタでした。そこで彼らは来たるべき時を待っているのです。

それは彼を受け入れることができる地上世界の到来です。

つまり我々現代の人間の精神性が向上して、彼らを受け入れることができるようなレベルになるのを待っているのです。

そして、レムリアンの精神性を受け継いでいる人たちもいるのです。

それが環太平洋の民族だと思います。

太平洋

日本列島、アリューシャン、北米の西海岸、メキシコ、南米の西海岸、ニュージーランド、オーストラリア、

イースター、タヒチ、ポリネシア,インドネシア、フィリピンなどです。

縄文人、アイヌ、イヌイット、ネイティブアメリカン、マヤ、アステカ、インカ、マオリ、アボリジニ、ハワイアン・・・

いわゆる非白人の民族です。そして共通項は宗教観。それは多神教や自然信仰です。

しかし、それらの宗教性や自然観は西洋至上主義のなかで否定され滅亡しようとしています。

レムリアが取りざたされるのは、人類がその深層心理でその復活を望んでいるからではないかと私は思っています。

西洋はアトランティスの影響をうけてこの時代も物質的進化の中心となってきました。

その進化が産業革命以降圧倒的に地球を凌駕してしまったのです。

レムリアはその行き過ぎた物質主義に歯止めをかけるキーワードなのだと思います。

そしてツインレイ。

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思い浮かべてみてください。宇宙から降り注ぐ一条の光。その光は揺らぎ揺らめいて二条の光に分かれます。

それらは絡み合うように捩じりながら上昇していき、また溶け合ってひとつの光になる。

私にはそのように見えるのです。

宇宙から降ろされた一つの光である命が二つに分れた存在。それがツインレイ。

これはツインソウルやソウルメイトと似通っていますが、もっと高次元の意味のように思えます。

ソウルメイトは魂の同胞ともいうべき存在で大きなカテゴリーなのだと思います。

そしてツインソウルは魂の分御霊。魂の双子のような感じです。

ツインソウルが点だとしたら、ツインレイは線のようなイメージ。

ツインソウルは今生のことだけだとしたら、ツインレイは永遠。

時間のスパンが違うのではないかというのが私の感覚です。

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マウントシャスタでなツインレイを感じるかというと、シャスタ山がシャスタとシャスティーナという二連峰だからかもしれません。

二元性を感じさせるのです。男性性と女性瀬、地上世界と地下世界、火山と豊富な水が織りなす火と水の二元性。

そしてレムリアとアトランティスという唯心と唯物の二元性。

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私たちは知らず知らずにもう一つのレイ(自分)を探しに生まれてきたのかもしれません。

そのレイに会ったときに言いようのない感覚になるのではないでしょうか。

あるいは自分のすぐ隣にいる反物質としての自分であるのかもしれません。

 

レムリアとツインレイ、一見全く違ったキーワードなのですがマウントシャスタに行くと二つの事が絡み合ってイメージとして出てくるのです。

シャスタに行って思い浮かんだことを記してみました。

 

今回のテーマは「シャスタとレムリアとツインレイについて」でした。

令和1年6月 369回スケジュール

4日

13:00

守谷 新規

アースハーモニー

5日

13:00

東京V   4回目

クラブワールド

19:00

東京U  7回目

クラブワールド

17日

12:00

谷本グループ 5回目

クラブワールド

19:00

アドバンス

クラブワールド

18日

13:00

東京R  11回目

クラブワールド

19日

19:00

古事記の神

クラブワールド

 

 

 

 

こんにちはスピリチュアキュレータの大村真吾です。

今回のテーマは「スピリチュアル的なメッセージとは?受け取り方と使い方」です。

1:スピリチュアル的なメッセージとは?

2:私の体験

3:受け取り方

4:使い方

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1:スピリチュアル的なメッセージとは?

まず、Message「メッセージ」とはどんな意味でしょうか?

英和辞典のWeblioには

(口頭・文書・信号などによる)通信、伝言、ことづけ、電報、書信、

(公式の)メッセージ、

(大統領の)教書、

(文学作品・音楽・演劇などの)主旨、意図

とあります。

 これにスピリチュアル的という意味が付加されると

霊的な伝言、ことづけ、意図ということになります。

適当な日本語でいうと「啓示」や「天啓」が近いでしょうか。

 

あらかじめスケジュールが決められて、そのとおり進んでいくなかで伝えられるメッセージではなく、思いもよらぬところから寄せられるもの。突如スケジュールが変わって出会うはずもない人が話した言葉や、瞑想や夢の中で聞いた言葉や光景といったのが「スピリチュアル的なメッセージ」ではないでしょうか。

 

つまり自分の思考を越えたところからもたらされる伝言。神や人知の及ばないものからのさし示された言葉ですね。

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2:私が受けたスピリチュアル的なメッセージ

分かりやすくするために私が受けたスピリチュアルメッセージのお話をします。

象徴的だったのは1999年に初めてセドナに行ったときのことです。

それはセドナに行く前から始まっていたことに後になって気づきました。

当時の私は全くスピリチュアルなこととは縁遠い生活をしていました。またそれらについての知識もありませんでした。それだけに後年になってこれから書く体験したことが「スピリチュアル的メッセージ」なのだと確信をえたのです。

 

Message1

まずは妻(当時は結婚前でしたが)が普段行かない本屋に行き偶然手にした本を買ったことから始まります。その本にセドナのことが紹介されていました。その記事に載っていた赤い岩山を見て「ここに行こう」と二人ともが直感的に思ったのです。すでにメキシコに行く予約をしていたにも関わらず、キャンセルをして旅行先をセドナに変えたのです。

 これは「言葉」ではありませんがメッセージの一つだと思います。何者かが妻を本屋んさんに導き、本を手に取らせ、二人に記事を読ませて、セドナに導いたと思わずにはいられません。

Message2

セドナの情報を持っていなかったので、どこに行けばいいかがわかりません。当時はセドナは日本人にとっては全くと言っていいほど無名の町でした。そこで通りすがりの男性に「僕たちはどこに行けばいいでしょうか」と尋ねたのです。答えは「ベルロック」でした。

これは人を介したメッセージです。

 

Message3

ベルロックに行って岩山を登っていきます。周囲には全く誰も居ません。中腹の見晴らしのよいところで座ってぼんやりとしていました。妻は数十メートル離れたところで自分の時間をすごしていました。

十数分一人で座っていたころです、突然「今の会社を辞めて新しいことを始めたほうが良い」という声が聞こえたのです。「えっ?」と思い周りを見回しても誰も居ません。「今聞こえたのは何だろう?」と不思議に思いますが確かに聞こえたのです。ずっと気になりながら旅行をつづけ帰国して翌日会社にいったときに退職届けを出していたのです。

 

これが私にとって象徴的な「スピリチュアル的なメッセージ」です。

 1、2という過程を経て3のメッセージを得るという構造になっています。

結構手が込んでいます(笑)

それも今になって分かったことなのです。

ついでに言うと、私たちがセドナに入った日は新月でした。これも後に分かったことです。

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3:メッセージの受け取り方

大きく2種類に分けられます。

まず一つ目

それは唐突にやってきます。少なくとも私にとっては不意打ちのような突然のことが多いです。

前述のセドナで起きたことはこの種類のメッセージです。

夢の中で語られたことや、朝起きぬけひらめきもこの種類でしょう。

本屋にはいって目に飛び込んできたタイトル、電車の釣り広告に書かれた言葉。

といったものです。つまり「こちらから得ようとしているわけでもないのに答えがやってくる」感覚です。

仲良くさせてもらっている音楽家で松尾泰伸さんというピアニストがいらっしゃいます。

松尾さんは羽生結弦選手の「天と地のレクイエム」というエキシビジョン曲の作曲家でもあるのですが、彼がまだシンセサイザーを主に演奏活動をしていたころ、ふと通りすがりに近い男性が「ピアノがあるホールを予約した」と言い残して立ち去ったのです。確かめると本当に予約されており、そこで数十年ぶりにピアノを弾き、その時の収録がヒーリングピアノアルバム「赤いルン」が出来上がったのです。ちなみにこのときのホール代金は男性が払ってくれていた訳ではなく当日ホールに行ってみると請求されて松尾さんご自身が払ったそうです。このことが松尾さんがピアノを弾く大きなきっかけになったのです。

通りすがりに近い男性はまさに明確なメッセージを松尾さんに授けたといえます。

そして、松尾さんはそれを受け取ったのです。

 

この受け取り方のコツは”感性を豊かにして気持ちをオープンにしとくこと”です。

そして「NO」ではなく「YES」の傾向を強めておくことです。

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普段から、誰かに仕事や頼まれごとされたときに理由をみつけて断るのではなく、可能なものは受けてしまうというようにするのです。それは自分に対してもそうで、やらない理由を探さないことです。「受け入れる」ということに慣れておくのです。

そうすると不意に訪れたメッセージを聴きやすく、受け取りやすくなります。76d3ca6eb45966a15026c4f154c34f09_s

そして次に能動的にメッセージを得ようとする方法です。

これは瞑想をして得ることができます。またセミナーやワークショップに出席してそのなかで話される言葉であることもあります。

瞑想でそれを得た経験をお話します。

私は369会という瞑想&リーディング教室をやっています。

当初、私はいくらの金額でこの会をすれば分からなく悩んでました。

ある時、瞑想をして上位の存在(ハイヤーセルフ)に今の私の置かれている状況を説明して。その会をいくらでやればよいか尋ねたのです。すると「6660円でやりなさい」と言われたのです。私は思わず「安すぎです」と言ったのです。すると再び「やり方がある」と言ってきました。そのやり方とは「参加者には1万円を持ってきてもらいなさい、お前はおつりの3340円を用意しなさい。そしてお釣りの3340円のうちの10円を神社仏閣や募金箱など第三者に渡してもらいなさい。そうすると私の手元には6660円が残る、参加者の手元には3330円のお釣りが残る、そして10円を他者に渡すので10000円から10円を引くと9990円になる。この3と6と9を経て10を渡すことによってまんとなす。これがミロクの世への生き方だ」といわれたのです。

そのメッセージを得たので私は参加費を6660円にして、1万円札を持ってきてもらい3340円のお釣りを渡すということにしたのです。

これは瞑想で答えを求めたものです。

セミナーやワークショップも目的を持って参加されることが多いでしょう。そこで知識や情報という種類の気づきではなく、「これだ!!という閃きのような」もの得た経験がある方もいるのではないでしょうか。

この時に大事なことは「質問力」です。

優れた質問が優れた答えを引き出すものです。

瞑想でも、セミナーでも的確な質問を用意するのが秘訣です。

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4:使い方

どれだけ素晴らしいメッセージを受け取ったとしても使わなければ無用の長物です。

とはいえ、すべてを実施できるかは別問題です。

なるべく実現していくことをお勧めしますが、なかには困難なこともあるでしょう。

または、的確なメッセージなのか?今の自分にとって最適なのか?など疑問が残る場合もあります。

そんなときは、私はもう一度自分に問いかけなおします。

「今、教えてもらったメッセージは自分にとって最適ですか」と自分自身に問いかけます。

このとき、少しでも疑念を感じたり、闇を感じたら実行しないことにしています。

問いかけてわからなければキネシオロジーやOリングテストをしてみます。

その結果、やるかやらないかを判断します。

また、物理的、金銭的に出来ない場合もあるので、それは冷静に判断する必要があります。

しかし、「出来る」というものは直に実行します。

即行動」です。

シンクロニシティとスピードは正比例しているのです。

決断と行動のスピードを速くしていくと次のシンクロ(メッセージ)が訪れるのも早くなります。

 

そして実行の種類ですが、

これは何も大きなことでなくてよいのです。

いやむしろ小さいことから始めるのが良いでしょう。

そして成功体験を積み上げていくのです。

そうするとスピリチュアル的なメッセージや自分の直観を信じやすくなります。

そして、その積み重ねが大きな決断にもつながっていくことになります。

最後にもう1点スピリチュアル的メッセージを得て成功する秘訣をお知らせします。

それは責任は全て自分にあるということです。

「呼ばれたから○○に行った」「上からいわれたからやった」ということをよく耳にします。

私にはしばしばそれは言い訳のように聞こえるのです。

天啓であろうと、宇宙からの啓示であろうと、神の声であろうと実行するのは自分です。

小さなメッセージを積み上げて、やがて自分の使命に行きつく。

それがスピリチュアル的なメッセージの醍醐味だと思います。

 

というわけで今回のテーマは「スピリチュアル的なメッセージとは?受け取り方と使い方」でした。